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泣く事も笑う事も

〜ヴォネガット・ビアフラ・三原順
立野 昧
初出: Sobahe Vol.1, Sep. 1999.

「ボクは父親が死ぬまぎわの頃は笑ってばかりいたのだけど…。 ひどいと思う
冷たいと…?
みんな…口には出さなかったけど不満そうだった… でも… でもボクにはそれしか出来なかったんだよ!
この間の本…「ローズウォーターさん ――」 あとがきを読んで…買ったんだ。著者の他の作品からの引用で… 「笑うのも泣くのもほかにどうしようもない時 人間がやる事だ」って… それで…“この人もそんな時 笑ったのかな”って」
(三原順「はみだしっ子10 つれて行って その1」花とゆめコミックス p.75)

『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』表紙画像
カート・ヴォネガット「ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを」ハヤカワ文庫、1982年 (原書 "God Bless You, Mr. Rosewater", 1965)

ハヤカワ・ノヴェルズ版の『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』 (邦訳)が出版されたのは一九七七年のこと。 ハヤカワ文庫版が出版されたのは五年後の一九八二年ですから、 三原順さんはノヴェルズ版で読んでいたものと思われます。 手元には文庫版しかないのですが、訳者の浅倉久志氏によるあとがきには 次のようにインタビュー記事が引用されています。

ヴォネガット ……涙がなにも解決しないのと同様、 笑いもなにひとつ解決してはくれません。笑うのも泣くのも、 ほかにどうしようもないとき人間がやることです。(中略) …… それでも、まるきり無意味な笑いというものはありません。 どんな笑いでも、きっと笑ったような気分になりますからね」
――『自己変革は可能か』

「ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを」は ローズウォーターという慈善的衝動にかられた大富豪の話です。 この物語の発想についてヴォネガット自身が語っていることを、 浅倉氏のあとがきは解説しています。それによると、 ヴォネガットが一時期共同で事務所を間借りしていた 会計士がヒントになっているそうです。 その会計士は貧乏な人たちにも優しく接していました。 彼は貧しい人たちの話を聞き、愛情と理解を与えましたが、 お金を与える事は出来ませんでした。彼自身与えるほどのお金を 持っていなかったからです。そこでヴォネガットは 彼のような人物に莫大な財産を持たせてみたのです。

慈善家の大富豪エリオット・ローズウォーターの姿は どこか悲しく滑稽です。彼の慈善的行動を嘲笑するか賞賛するかで 読み方が別れるかも知れませんが、ヴォネガットの描き方は両義的です。 この物語には、あるいはアメリカがあまり語りたがらない 事柄が書いてあるかも知れません。



以前、アメリカの大学の寮で数日間を過ごしました。 ある会合の帰り、同じ方向に戻る女性の数学者と10分ほど話しながら歩きました。 その女性は、私に尋ねました。

「この国をどう思いますか?」

私はその女性が喜んでくれると思ってこう応えました。

「素晴らしいです」

けれど、その女性は寂しそうに微笑んでこう言って去って行きました。

「あなたはまだこの国のごく一面しか知らないわ」

「自己変革は可能か」はプレイボーイ一九七三年七月号に掲載された インタビュー記事です。ヴォネガットの書評や講演などをまとめた "Wampeters, Foma & Granfalloons" という本が一九七四年に出版され、 その中に収録されています。翻訳は『ヴォネガット、大いに語る』 というタイトルでサンリオ文庫から一九八四年に出版されましたが これは十年ほど昔に絶版になっています。 現在は早川から文庫で出ていると思います。

サンリオ文庫『ヴォネガット、大いに語る』表紙画像
サンリオ文庫『ヴォネガット、大いに語る』飛田茂雄訳、1984年 (原書 "Wampeters, Foma & Granfalloons", 1974)

改めて「自己変革は可能か」の「泣く事も笑う事も」のくだりを読み返すと、 当時の二つの出来事に触れられていました。どうしようもない状況に 笑う事しか出来なかった出来事です。

一つは、ヴォネガットが聴衆にもっとも笑っていただけた講演会の話です。 ヴォネガットはあちこちで講演会を行っていましたが、 ノートルダム大学の学芸祭で行った講演は聴衆とぴったり息が合い、 咳払いするだけで笑いが取れたそうです。しかしそれは何故か? 聴衆が深い悲しみの中にあったからだと、説明されます。

「みんなが笑ったのは、つらかったから、 どうしようもない苦痛を感じていたからなのです。 彼らは二日前にマーチン・ルーサー・キング牧師が射殺されたので、 やりきれない無力感にとらわれていました。(中略) 最大の笑いで迎えられたのはこの悲嘆のさなかです。 精神を調整する唯一の可能性として、 笑うか泣くかしたいという巨大な欲求があったんですね。 キング牧師を生き返らせたくても、いまさらどうすることもできない。 こんなわけで、最大の笑いは最大の絶望や最大の不安に根ざしているのです」 (「自己変革は可能か」)

アメリカ公民権運動の中心的存在で、 一九六四年にノーベル平和賞を受賞したマーチン・ルーサー・キング牧師が 暗殺されたのは、一九六八年四月四日のことです。 市の清掃労働者組合によるストライキを支援するために訪れていた テネシー州メンフィスの宿泊先でです。 三十九歳でした。



「眠りなさい 今夜は
 眠りなさい
 そしてせめてあなたの夢が現実のものとなりますように」
(U2「MLK」アルバム『焔』ラスト曲より)

ヴォネガットがどうしようもない状況に 笑う事しか出来なかったような事として語っているもう一つの出来事は、 ビアフラ戦争です。ヴォネガットは陥落寸前のビアフラの首都に 数日間滞在していました。その様子が 『ヴォネガット、大いに語る』所収の「ビアフラ ―― 裏切られた民衆」 に綴られています(初出は『マッコール』一九七〇年四月号)。

ビアフラ内戦は、ナイジェリアで部族対立による虐殺事件が発端で ビアフラ地方が独立を宣言したところ、ナイジェリア政府が 宣戦布告をしたことにより始まりました。 虐殺の原因には奴隷売買の歴史など根深いものもありますが、 勤勉で裕福なビアフラのイボ族が他部族に妬まれていたということもあるようです。 戦争といっても最初のうちは牧歌的とすら言えるものだったのが、 ビアフラには油田が豊富だったことから、石油を狙った大国の介入により 最後には戦闘機が飛び交う戦争に変わっていました。 戦争末期にはビアフラは完全に包囲され、兵糧攻めのようになり、 飢餓で数百万人が死んだと言われています。

ビアフラ共和国がナイジェリアから独立宣言をしたのは一九六七年五月。 ナイジェリアに無条件降伏をしたのは一九七〇年一月一七日。 ヴォネガットは、一九七〇年の一月三日〜九日の間、首都オウェリに滞在し、 飢餓の中で静かに消えていく一つの国の死際を見ました。 どうにもならない現状を前に、ヴォネガットは死刑台上のユーモアを飛ばして いました。

「ミリアム(ヴォネガットをビアフラに呼んだ活動家)は一度、 私の会話にいらだち、軽蔑を込めて言った、 『口を開くたびに、冗談を言わずにいられないんですね』 そのとおりであった。どうにもならない悲惨さに対応する わたしの唯一の手段は、冗談を言うことであった」 (「ビアフラ ―― 裏切られた民衆」)

講談社文庫『ビアフラ 飢餓で滅んだ国』表紙画像
講談社文庫 『ビアフラ〜餓死で亡んだ国〜』 伊藤正孝、1984年 (単行本初版『ビアフラ潜入記』1970年、朝日新聞社)

ヴォネガットと同じ頃ビアフラの首都に滞在し、 死んでいく国を見届けていた日本人記者がいました。 伊藤正孝氏の本『ビアフラ 飢餓で滅んだ国』を読むと、 日本人記者はアメリカ人以上にビアフラへの入国が難しかったことがわかります。 陸の孤島と化していたビアフラの首都に入るには飛行機しかなく、 つまり飛行機に人間を一人乗せるという事は その分だけ食糧が運べなくなることを意味していました。 伊藤氏はパリで、日本人は募金をしてビアフラに送っていると主張しました。

「いや、日本から金を受け取った覚えはない。あなたは国際赤十字へ 送られたお金はビアフラではなくナイジェリア側へ流れていることを知っていますか」
「それは本当ですか。信じがたい」
「国際赤十字は英米の圧力に屈し、ビアフラ救援から手を引きました。 これは欧州ではもはや常識です。日本の民衆がそれすら知らなかったとは!」
(講談社文庫『ビアフラ 飢餓で滅んだ国』 P20〜21)

日本の外交音痴については今更驚くことはないかも知れません。 伊藤氏は、日本人が如何にビアフラのことで心を痛めているかアピールするために、 パリのビアフラ代表部で新谷のりこさんの「フランシーヌの場合」を 唄ったと書いています。

「三月三十日の 日曜日 パリの朝に燃えた命 ひとつ フランシーヌ」

一九六九年三月三〇日、女子学生フランシーヌ・ルコントは、 ビアフラ停戦を訴えてパリで焼身自殺をしました。 パリではほぼ忘れられていたこの事件が、遠い日本で歌になって 大ヒットしていることは、ビアフラ代表部に少なからず感銘を与えたと、 伊藤氏は記しています。 「フランシーヌの場合」のレコードは彼の手で遺族に贈られました。


一九六九年十二月末にビアフラに入国した伊藤氏は、 ヴォネガットと同じビアフラを見て、一九七〇年一月七日に出国しました。 外国人記者たちに国外退去を促すビアフラの報道部長が言った言葉が 印象的でした。

「もし欧州で一万人が餓死すれば、世界は大騒ぎするでしょう。 アジアでも十万人死ねば国連は解決にどんな努力でも注ぎ込むでしょう。 しかしビアフラは、二年半に渡って無視され、二百万人が死んだあとも 放っておかれた。私たちの命は安かった。 死ぬときは、白人に見られずに死にたい」

フランス赤十字の七人の医師は、最後まで出国を拒否しました。 「子供たちを運ばなければ最後まで踏み止まる」と。 のちに、ビアフラとバングラディッシュの悲惨をくぐり抜けた それぞれの医師たちが合流し、一つの重要な組織が生まれました。 「国境なき医師団」です。


ビアフラにいるときは冗談ばかり言っていて一度も泣かなかった ヴォネガットが、一度だけビアフラのために泣いたと書いています。 アメリカに帰国して三日目の午前二時。おそらくビアフラという国が 世界から消滅した瞬間のことではないかと思います。

ヴォネガットによると、ビアフラの国家はシベリウスの 「フィンランディア」に歌詞をつけたものであるそうです。

「熱帯のビアフラ人は北極圏のフィンランド人を尊敬していた。 フィンランド人が圧倒的に不利な状況のもとに独立を獲得し、 それを立派に保持していたからである」

ヴォネガットは彼のビアフラレポートを次のように結んでいます。

「わたしは大急ぎでこの原稿を書き上げた。読み返してみると、ビアフラ 国民の哀れさよりも偉大さについて語るという最初の約束を裏切ってしまっ たようだ。わたしは子供たちの死を心の底から悲しんだ。わたしはガソリ ンを浴びせられた婦人の話をした。 国民としての偉大さについて言えば、死滅のときにあらゆる国民が偉大 であり、神聖ですらあるという見方は、たぶん真実だろう。 ビアフラ人は以前には一度も戦ったことがなかった。今回彼らは立派に 戦った。もう二度戦うことはあるまい。 彼らが古代マリンバで「フィンランディア」を演奏することは、もはや 永遠にないだろう。
平和。
わたしの隣人たちは、もう遅いけれどもビアフラのためにできることは なにかないか、あるいは、もっと前にビアフラのためにすべきであったこ とはなにか、とたずねる。 わたしは彼らに答える、『なにもないよ。それはかってもいまもナイジェ リアの国内問題だった。きみたちはただそれを嘆くことしかできない』 ある人々は、せめてもの償いとして、これからナイジェリア人を憎むべ きだろうかと問う。 わたしは答える、『そうは思わない』 」

ヴォネガットは「自己変革は可能か」のインタビューの中で、 「あなたは人々がすぐそばに住んで、あなたとまったく同じことを 考えている状態を望むわけですか」との問いに、こう答えています。

「ちがいます。そんなのはまだ原始的とは言えません。 わたしは全然ものを考えない人々と一緒に暮らし、わたしもものを 考えなくて済むという状態を欲します。私は考えることにうんざりしています。 考えたからって、たいして役に立つとは思えないのです。 わたしの考えでは、人間の頭脳はこの特定の宇宙でいろいろと 実際的な効用を発揮するには高性能すぎるんですよ。 わたしはワニと一緒に住み、ワニのように考えたい」

私は、グレアムが、凍てついた世界に行って 「生き延びる為だけに生きたいんだ」 という願望を口にするとき、ヴォネガットの 「ワニのように生きたいのです」という言葉を思い出します。


シベリウスの「フィンランディア」に耳を澄まします。 今はない国の国歌に様々な想いを重ねながら。

(一九九九年三月 立野昧)

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(C) Mai Tateno 立野 昧