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立野の三原順メモノート第5集(2001〜2003年)


立野の三原順メモノート(39) (2001.1.22)

M・R・ジェイムズ「薔薇園」

はみだしっ子シリーズ番外編「もっと焚木を!」に登場する話について、 BBS2の方で質問されていた方がいらっしゃいましたので、 これを機会にメモに記してみました。

「もっと焚木を!」は1979年の「花とゆめ」18号に掲載された番外編で、 花とゆめコミックスでは第9巻『ブルーカラー』に、 文庫版・愛蔵版では第4巻に収録されています。 壊れたバイクの修理費をアンジーは小遣いから積み立てていて、 来週には満期になって修理に出してもらえる。 が、実は既にジャックは修理を終えたバイクを物置に隠していた。 ロナルドは物置にまつわる怪談話をしてアンジーを刺激してみるけれど 好奇心から行動に出たのは他の3人で、当のアンジーは パムに足のことで心配をかけないように…ということばかり気にしていた、 というような話です。それで、ロナルドが使う怪談がこんな話。

「バークはその柱のわきに置いてあった椅子に座り本を読み出した…が、 ほどなく恐ろしい夢に引きずり込まれてしまったんだ。 彼は裁判にかけられていた。 誰も彼を弁護しない。 彼がわが身の潔白を訴えようと答えることは すべて意地悪くねじ曲げて解釈され不当に攻撃され、 その雰囲気の恐ろしさは説明のしようがないんだと バークは言っていたが…」
「そしてついに処刑の日が来た!  彼は刑場にひきずり出される。 大勢の見物人。 十字架。 そして炎。 というところで彼は夢から醒めたんだ」
「第2の犠牲者ハンフリー・キングが 同じその場所で眠ってしまったのは3か月後だったよ。 同じ法廷。同じ質問。同じ罵倒…絶望感。 二人から別々に夢の話を聞かされた男が二人を引き合わせて確認した」
「それから2年。みんながようやく忘れかかった頃、ルーク・アンダーソンが」
「繰り返される状況情景。バークは処刑前に、ハンフリーは獄中で目を覚ましたが、 ルークは処刑されるところまで夢見てしまった」
(コミックス第9巻 P158〜160)

これについては、作中でグレアムがロナルドに言っている言葉で M・R・ジェイムズの脚色であることが明記されています。

「今度M・R・ジェイムズの小説脚色するときは 秦皮(とねりこ)の樹から蜘蛛が出る怪談を ボクの部屋を舞台にやりましょうよ ロナルド!」
(コミックス第9巻 P170)

さて、処刑の悪夢の話ですが、これはM・R・ジェイムズの 「薔薇園 (The Rose Garden)」という短編が元になっていると思われます。

アンストルーザー夫妻は古い屋敷を手に入れた。 夫人は空き地に薔薇園を作ろうと思ったが、 そこには古ぼけた柱と椅子があった。 昔の持ち主の女性が訪れ、そこにあずまやがあったこと、 そのあずまやで彼女と彼女の兄のフランクが子供の頃に経験した 恐ろしい出来事を話した。

「まず、たくさんの人がいる大きな部屋の中に立っていると、 その真向かいに誰か"とてもえらそうな"人物がいて、 何やら質問してくるのだそうです。その質問はとても重要なことらしく、 フランクがそれに答えると誰かが――つまり正面にいる男か別の人間が、 彼に反論するのです」
「いまになってみればこれは法廷の場面だとわかりますわ。でも、 わたしたち子供は新聞を読むことが許されませんでしたし、 それに八歳の子供が、そんなに法廷内の情景を鮮やかに見るということじたい、 おかしいと思いません? 彼が言うには、そのあいだじゅう激しい不安と、 うちのめされたような気持と、絶望を感じていたということです。 夢はそのあと、とても不安でみじめな気分の中断をはさんだあと、 別の光景があらわれたそうです。それは、どんより曇った朝、 彼がドアから出たところからはじまります。小雪が降っていました。 どこかの道か、すくなくとも家の間を歩いていくと、そこにたくさんの人が 集まっていることを感じました。木の階段をギーギーいわせながら 昇っていくと、台のようなものの上に立ちました。目にふれたものは、 どこか彼の傍らで燃えている小さな焔だけでした。 誰か彼の腕を抑えていた者がここで手を離し、焔のほうへ歩いていきました。 フランクがいうには、この部分が夢の中でいちばんこわかったそうです。 もしわたしが揺り起こさなかったら、どうなったかわからないといっていました」

彼女自身もまた、そのあずまやで柱の中から奇妙な声を聞くという体験をし、 それを聞いた彼女たちの父が、あずまやを壊してしまったと。

アンストルーザー夫人は、構わず召使に椅子を片付け、 柱を引っこ抜かせてしまう。 その晩、アンストルーザー氏が同じ夢を見る。 夫人は空き地で恐ろしい幽霊を見る…。

(M・R・ジェイムズ「薔薇園」、 紀田順一郎訳『M・R・ジェイムズ全集(上)』、1973年、創土社、P213〜230)

この短編では夢を見るのは2人だけで、ロナルドの話の方が だんだん夢の先を見るという、面白い話の持って行き方に なっているように感じました。 また、結局どういう幽霊だったのかの説明が少なくて、 巻末の訳者の解説「廃墟と迷宮のデイレッタント」を読んで、 あ、そうだったのか…という感じでした (イギリス人になら説明が少なくてもわかるのカモですが)。

紀田順一郎さんの解説によると、 M・R・ジェイムズ (Montague Rhodes James, 1862-1936) は、 「ケント州の学者の家に生まれ、ケンブリッジ大学を卒業した古物研究家、 聖書学者、古文書学者」とのこと。博物館の館長などする傍ら、 怪談を創作して(言い伝えの類ではなかったようです)、 クリスマスに恒例のように発表し、子供たちに人気があったようです。

「薔薇園」もそうですが、作風は素朴な怪談で、 2重3重のどんでん返しや複雑な心理ドラマのある現代的なミステリーに比べれば 単純すぎるようにも思え、実際そういう批評もあったようです。 しかし、この全集の中でも紹介されているM・R・ジェイムズの文章によると、 それは意図した作風なのだということが感じられます。

「また"オカルティズム"というものも、慎重に扱わないと単なる怪談 (私の書こうとしているのはそれなのだ)を疑似科学の俎上に乗せてしまい、 想像文学以上の作用を要求することになろう。 私は自分でもこの種の物語が十九世紀的感覚のもので、 けっして二十世紀のものではないのを心得ているつもりだ」
(M・R・ジェイムズ「続・好古家の怪談集」序文、 『M・R・ジェイムズ全集(上)』、P200)

さて、グレアムが言う「秦皮(とねりこ)の樹から蜘蛛が出る怪談」は、 やはり『M・R・ジェイムズ全集(上)』に収録されている 「秦皮の樹 (The Ash-tree)」でしょう。 また、「もっと焚木を!」のラストで、マックスが言う:

「…何? この看板
"汝委託されし物を守るべし"
…また M・R・ジェイムズのかしら?」

これもM・R・ジェイムズからの引用で、 やはり『M・R・ジェイムズ全集(上)』に収録されている 「トマス僧院長の宝 (The Treasure of Abbot Thomas)」のラストが、

「ものすごいグロテスクな格好をした、蟾蜍(ひきがえる)そっくりの怪物で、 それには二つの単語を記した紋章が彫りこんであった。 "Depositum custodi" (汝、委託されし物を守るべし)とね」

です。 マックスがいきなりラテン語(たぶん)を読むというのも凄いですが (^^;)。

なお、「マーチンの墓」という短編もあって気になりますが、 マーチン家が名家であるという設定以外、 特にはみだしっ子のシドニー・マーチンとの関連は感じられませんでした。

M・R・ジェイムズの本で現在入手可能なものがどれだけあるかは 把握していませんが、たとえば 「 ケンブリッジの幽霊黄金時代」というサイトなどは参考になると思います。

(2001年1月 立野昧)
2002年5月 追記) 『M・R・ジェイムズ怪談全集1、2』は、 2001年に創元推理文庫で文庫化され(Fシ22、23)、 入手しやすくなりました。 ただ、解説は全般的に書き直されていて、 「薔薇園」の説明も省略されてしまっていたので、 ここに単行本の時の説明を紹介しておきます。
「薔薇園」は「オールベリック」同様、解決部分に飛躍があってわかりにくいが、 話の大筋はチャールズ二世下の裁判官某卿が苛虐な裁判を行い、 その犠牲となった囚人の呪いをうけて悶々のうちに死亡する。 薔薇園にあった柱はその囚人の埋葬所で、 もとウエストフィールド教会の西側にあたる。 だが、囚人の呪いは彼を成仏させず、アンストルーザー夫人が柘植の繁みで 見たように宙に迷った首が出現するしまつに、教区長が慌てて埋葬しなおす。 しかし、それが無効だったことは夫人のおそろしい体験でも明らかである。 柱の傍らにいるものが見た夢は、処刑された囚人の怨念であり、 そのなかで苛酷な詰問者となっているのが卿である−−ということだろう。 (紀田順一郎氏の解説「廃墟と迷宮のデイレッタント」 『M・R・ジェイムズ全集(上)』所収、1973年、創土社、P401〜402)

立野の三原順メモノート(40) (2001.6.28)

大いなる他者

もう2年も前になりますが、BBSの方で「山の上に吹く風は」の 「神様! あなたは大いなる他者だ」というアンジーのセリフについての 投稿がありました。(→ 「 大いなる他者」)

この「大いなる他者」という言葉について、自分では 3年以上前に書いた日記 「 なぜ自分がいいと思うことが出来ないか」で 書いてしまっているつもりでいたので、特にフォローしていなかったのですが、 今更ながら少しだけ書いておこうと思います。

その日記でも書いている通り、 この言葉はR.D.レインの本の中に出てきます。

「すべての人間存在は、子供であれ、大人であれ、意味、すなわち、 他人の世界のなかでの場所を必要としているように思われる。 大人も子供、他者の目の中での<境地>を求め、動く余地を与えるところの 境地を求める。もし自分のすることがすべてほかの誰にとっても 全く意味がないといった場合に、人間関係の連鎖の中で無制限の自由を 選択するであろうような人物が多数いるとは考えにくい。自分のすることが 誰にとっても重大なかかわりがない場合に、誰が自由を選択するであろうか。 少なくともひとりの他者の世界の中で、場所を占めたいというのは、 普遍的な人間的欲求であるように思われる。 おそらく宗教における最大のなぐさめは、自分はひとりの 大いなる他者の前に生きているという実感であろう。
(R.D.レイン『自己と他者』P167, 1975年, みすず書房)

このように、R.D.レインの著書の中でも唐突に使われます。 その辺の背景についての考察は上記の日記をご参照ください。 何故神様が「大いなる他者」になるのかは、 そこで立野なりの言葉で説明してあります。

立野の三原順メモノート(24) 「『結ぼれ』『自己と他者』/RDレイン」 でも触れていますが、R.D.レインの影響を感じられるところは 他にもあちこちにあるようです。

アンジーのセリフに出てくる「見せかけと逃避」は『自己と他者』 3章のタイトルですし、ムカデがどの足をどう動かそうと 考え出してしまったために動けなくなる話もレインにあったような気がします。 また、何故か単行本には収録されずに削られてしまったページなのですが、 アンジーが夢の中でジョイの拳銃を捨てるシーン(※)は、 レインの『自己と他者』9章「にせの境地と安住し得ない境地」 に出てくる、次の夢の例がそのまま使われているようです。

「私は海岸にいた。砂と不毛の岩とがあった。私はひとりぼっちだった。 私は海へ走って行き泳ぎに泳いだ、とうとう疲れ果てて別の海岸に たどりついた。そこには、また、砂と不毛の岩とがあった。 ここでも私はひとりぼっちだった。それが同じ場所であることに私は気づいた」 (R.D.レイン『自己と他者』9章「にせの境地と安住し得ない境地」、p 161、 1975年、みすず書房)
(※)…花とゆめ1977年10号23ページ。 コミックスでは第4巻P148ページの次、 文庫では第2巻P252の次のページにあったはずになります。

レインの使う「境地」という言葉は、立野の中では何故か ムーンライティングシリーズの「僕のすわっている場所」の「場所」 のイメージと何故か重なるのですが それ以上あまり真面目に考えたことはありません (^^;)。

6月に書きかけてメモノートのメモとして残していたことの2つは、 別の機会にということで、とりあえずここまでにしておきます。

(2001年6月、10月 立野昧)

立野の三原順メモノート(41) (2002.3.20)

Studio Life「Sons」とパンフの話

こちらでも紹介していましたが、昨年(2001年10月3日〜10月14日) 新宿シアターサンモールにて三原順「Sons」が 萩尾望都「トーマの心臓」の演劇化などを手がけた 劇団 Studio Life (http://www.studio-life.com/) によって演劇として上演されました。

立野も観に行きました。芝居の感想としては、 多くの方が言われているように、長くて登場人物の多い物語を 原作にほぼ忠実に一通りやっているため、 どうしてもストーリー展開が駆け足になり、 原作を読んでいない方はついていくのが大変だったのではないかというのがまずです。 ただ、クライマックスには細部が掴めなかった人でも 楽しめるように工夫されていたと思います。

原作に思い入れの強い人間が語りだすときりがないですが、 ロージーがぶりっ子気味なのがパスだったのと(苦笑)、 あとは立野の好きなあのセリフが省略されている…というのが いくつか引っかかってしまったところです。 ウイリアムは「野垂れ死に」を言わないし、 ジェニファーは立野が一番好きなあのセリフを言っていないですし (これについてはいつかまた書くかも)。

ロジャーのセリフで立野が一番好きなものも出てきませんでした。 もっともこれは芝居にロボが出てきていなかったのでしょうがないのですが。

雪山の銃撃戦の後、傷ついたロボの看病をしながら 閉じこもるDDの部屋にロジャーが訪れます。

DD
あいつらがケビンを攫ったのはね…
お母ちゃんはウイリアムが連中の扱い方を間違えたせいだと思ってるらしいけど… 違うんだよ。
あれはジェニファーがジュニアを愛していたからなんだってさ! 
ジェニファーがそう言ったんだ。
“愛”って凄く無気味だね。
どこにでもゴロゴロしてて…
それだけで何でも出来てしまえるなんて、とても… 気持ち悪くない?
ロジャー
君はそう思うの?
でも ボクは君がロボを愛してて だから君もロボと一緒に床で眠ってると聞かされたって ちっとも無気味だとは思わないけどね
DD
そう?…オレはロボを愛してるの? そうなの?
(『Sons』単行本7巻P24〜25、文庫4巻P160〜161)

これが立野が一番好きなロジャーのセリフです。 二番目は、うーん、「ボク達は金があれば防げる不幸というのが 確かにあるんだという事を骨身に染みて分かってるんだ」でしょうか (^^;)。 これは芝居でも出てきたような気がします。

とにかく、三原順さんの、しかも『Sons』をこうして 上演してくださった Studio Life さんにはとっても感謝でした。 また、劇場のお客さんたちが難しそうにしながらも真剣に見ようとしていて、 まじめな固定ファンの多い劇団なのだなぁというのも印象に残ったことでした。

さて、その演劇のパンフレットに、立野も <「Sons」三原順の世界>という文章を書きました。 詳細はそのパンフレットをご覧下さい…ということで、 ここではそのパンフレットに書き損なった話を。

解説の前半に、もともとは次のような文章を立野は書いていました。

DDが「お母ちゃん」と呼んでいるエレは本当は祖母だ。エレの娘ジニー は13歳の時に家出をし、産み落としたDDと共に施設で見つかった。精 神を病んでしまっていたジニーはやがて死に、祖父母はDDを自分の子供 として育てた。ジニーの存在を隠して。

しかし、DDは覚えている。嵐の晩、森でナイフを振りかざし、自分を 殺そうとした狂った少女が自分の本当の母であることを。そして苛立ちを 感じ始めている。ケンカ友達の従兄弟のケビンでさえ「それだけは言わな いでおいてやっているんだ」という顔をしていることに。謎に包まれた自 分の本当の父親に。自分への思いやりのために自分の本当の母親がこの世 に存在しなかったことにされていることに。

このうち一部を、先方の意向で変更しました。 芝居を見終わって、別にこのままでも良かったように思えるのですが、 それはそれとして…。結局文章の一番のポイントが落ちてしまった訳です。 もちろん、それは「自分への思いやりのために自分の本当の母親が この世に存在しなかったことにされていることに」です。

『Sons』の特に前半、DDは何かに駆り立てられるように、 とにかく苛立っています。その苛立ちの原因は何なのか?

立野はDDの置かれた立場を想像してみました。 自分の父親が誰だか分からないってどんな気分だろう?  自分の本当の母親が誰かを自分は知っていると言ってはいけないとは どんな気分だろう?  みんながそれを知っていて自分に隠そうとしているとしたらどんな気分だろう?  自分が知らない父親をウイリアムにオレは知っていると かまをかけられたらどんな気分だろう?

ケンカ友達にあわれみをかけられるのは「チクショウ!」な気分でしょうし、 自分の本当の母親が誰かを知らないふりをし続けなければならないことは 悲しいかも知れない。何故知らないふりをしなければならないかと言うと、 「お母ちゃん」を傷つけたくないからで…。 もちろん本当のところはわからないのでしょうが、DDの中で 「お母ちゃんにそんなこと言えない」というのと「言ってしまいたい」という 相反する二つの感情が存在するのが何となく想像できてきます。

思いやり、やさしさ。そう、お母ちゃんはジニーのことも愛していた。 そうしてやっとDDの叫びが分かってくる。

やさしくて… 親切で…
だからって… それが何だっていうの? ねェお母ちゃん
お母ちゃん あの子も愛してたんだろう?
自分の娘だもの… うんと愛してたんだろう?
村のみんなも… 親切で… 優しかったんだろう?
昔から… ジニーにも…
でも誰もジニーを助けられなかった! そうだろう?
いくら 愛してたって! 優しくたって!
誰もジニーを救えなかったじゃないか!!
オレの本当の父親がジニーを傷つけた時だって
ジニーがオレを産んだ時だって
誰の手もジニーを支えきれなかったじゃないか!!
ジニーがオレを殺そうとした時も ジニーが死んでしまった時も!!
そんなもの役に立たなかったんだ!
それだけじゃ足りなかったんだ!
たかがそんなもの!!
そんなものが何だっていうんだ!
たかが愛情なんて知った事か!!
役立たずの糞ったれ!
ジニーはたった一人で死んじまったんだぞ
傷ついたまま一人で死んじまったんだぞ!
そんなものでオレを縛るな! オレを急がすな!
オレはそんなものいらない!
いるもんか!
(『Sons』単行本2巻P140〜143、文庫2巻P20〜23)

このことは『Sons』全編を通しての旋律の一つになっていると思います。 ずっとどこかで鳴り響いていて、時々表に出てきています。 最後のほうで、DDのこんなモノローグもあります。

幸せのひとつは意図的に貴方達を裏切れたから!
お父ちゃん! お母ちゃん!
偶然ではなく意図的に!
貴方達が追放を決めたウイリアムに助けを求め… いないふりをしているスティンに会い!
そしてオレは幸せ
これが“幸せな子供”でいる事を強制されたオレの腹いせ!
ザマアミロ!
ザマアミロ!
そしてオレは幸せ…オレは幸せな気分!
これでやっと誰かを殺したい衝動から逃れられる…
誰も殺さずに済む
お父ちゃんも… お母ちゃんも
オレ自身も
…誰も 殺さずにいられるだろう…
きっとね…
(『Sons』単行本7巻P123〜125、文庫4巻P259〜261)

もう一度、DDとロジャーの会話に戻ります。

DDが「愛って無気味だね」と言う時。

それはもちろん、話の短い文脈の中ではジェニファーのことを言っています。 しかし、物語の長い文脈の中で読んでいると、 DDは、頭の片隅のどこかで自分の母ジニーのことを思いながら 言っているように思えてきます。

ジュニアのことを愛していなければ死なずにいられたかも知れないジェニファー。 スティンのことを愛していなければ死なずにいられたかも知れないジニー。 パットにジニーの話をされたハーブは 「…困るよ、そんなの。突然妊娠だの赤ン坊だの…言われたって…」 としか反応できませんでした(『Sons』文庫1巻P231)。 DDだって、ジニーとまともに向き合えてはいなかった。

“愛”って無気味だね。

君はそう思うの?

そうして少しずつ、DDの心の中のジニーは化け物から人間へと変わって行く。

だからいっそう、立野はこのシーンが好きなのだと思います。

(2002年3月20日 立野昧)
2002年6月25日 若干加筆

立野の三原順メモノート(42) (2002.6.25)

スチュアート・ヒューズ『意識と社会』(1)クローチェ

三原順『はみだしっ子』より
三原順『はみだしっ子』より (白泉社文庫第6巻P266、花とゆめコミックス第13巻P136)

ヒューズ、あるいはクローチェという名前を聞いて、 ピンときた方も多いと思います。 どちらの名も『はみだしっ子』の最後の方に出てきます。

クークーがいた病院の(おそらく精神科の)医師の名がヒューズで、 物語中で明記はされていませんが、雪山事件後のグレアムの治療にあたっていたのが ヒューズ医師だったらしきことがジャックによって示唆されています。 クローチェは、『はみだしっ子』ラスト近くで、アンジーがグレアムに 朗読させてみたいと言った「我々は古代ギリシア人の様にこの世の生活の幸福なぞ もはや信じてはいない…」という文章を書いた人です。

三原順さんがスチュアート・ヒューズ『意識と社会』を読んでいたことは 間違いないのですが、この書物について語ることはなかなか出来ず、 ずっと懸案事項のままでした。しかしとにかくまず、クローチェに焦点を絞って メモを残します。

まずは本の紹介から。

スチュアート・ヒューズ 『意識と社会 ヨーロッパ社会思想 1890-1930』 生松敬三、荒川幾男共訳、みすず書房、初版1965年、改訂1970年、新装1999年。 原書 "CONSCIOUSNESS AND SOCIETY The Reconstruction of European Social Thought 1890-1930" H. Stuart Hughes, Alfred A. Knopf, Inc., New York, 1958.

新装版が1999年に出ていて、2002年現在でも新刊書店にて 入手可能と思います。著者ヒューズは著者略歴によると、 1916年ニューヨーク生まれ (没年記述なしなので、まだご存命中かも知れません)。 ヨーロッパに留学し、 「アメリカにおけるヨーロッパ思想史のすぐれた理解者」(カバー裏紹介) とのこと。『意識と社会』は、後に続く 『ふさがれた道 失意の時代のフランス社会思想』 (みすず書房、1970年)、 『大変貌 社会思想の大移動』(みすず書房、1978年) と合わせ、ヒューズの20世紀社会思想史3部作の第1作と 位置付けられているようです。

ヒューズは『意識と社会』の中でこの時期(1890〜1930年) のヨーロッパの文化・思想の中心は フランス・ドイツ・イタリアであると位置付けています。 その正当性はともかく、これ以上広範囲にいろいろ取り上げられても 読むほうが大変なので多少絞り込んでいただくのは助かります(苦笑)。 そして、1890年から1930年の40年間の時期に、 特にヒューズが重要と認めた3人の思想家が、 フロイト、ウェーバー、クローチェでした。

明らかに、この時代にひときわ高くそびえ立っている人物は、 ジークムント・フロイトである。そしてフロイトについで重要なのは、 マックス・ウェーバー−−法学者、経済学者、歴史家、社会学者、哲学者−− で、かれはずばぬけた知的能力と多面性をそなえ、その健康をも脅かした 絶望的な諸矛盾を不屈剛毅の意志力によって辛うじてつなぎとめていた。 第三に挙げねばならないのは、ベネデット・クローチェであろう。 この思想家は、独創性においては若干欠けるところがあるが、 半世紀にわたって学問・哲学上の一種の独裁権をふるったかれの イタリアにおける影響は、今日では類例を見ないほどのものであった。 われわれ歴史家が彼に負うているものは、歴史の方法および哲学的前提に関する もっとも強力な現代的批判である。このフロイト、ウェーバー、クローチェ、 三人のもつ重要な意義についてはほとんどまず異論はあるまい。
(スチュアート・ヒューズ『意識と社会』P14、みすず書房)

フロイト、ウェーバーは非常に有名ですが、立野はクローチェは 『はみだしっ子』でしか知りませんでした(苦笑)。 ヒューズが別途挙げている、デュルケーム、パレート、ベルグソン、ユング などの思想家は知っていたのですが…。実際、クローチェより 知られているのではないでしょうか。 ヒューズが何故クローチェを贔屓にするかは、 ざっと読んで彼自身の「意識」の方向を知ると何となくわかってきます。

ヒューズの分野は、歴史哲学・政治哲学の方向にあるようです。 そして、この本でヒューズが掲げている旗印は、言わば「啓蒙の復権」です。 啓蒙なんて言うと既にアナクロだった時代、ヒューズは意識的に 「われわれはだれでも、多かれ少かれ、啓蒙の子である、 とわたくしは信じている」と表明しています(同書P20)。 そして、次のカッシーラーの言葉を引用し、支持しています。

「人間の最高の能力として理性と科学とを尊重した時代が……見失われることは ありえないし、またあってはならない。われわれは、その時代をたんにありの ままにとらえるだけでなく、その時代を生み出し形づくった根源的な力を ふたたび回復するための方法を見出さなければならない」
(エルンスト・カッシーラー『啓蒙主義の哲学』紀伊国屋書店、1962年 (原書1932年))

そして、ヒューズが啓蒙の遺産の中で最も大事だと言っているのは、 「可能な限り理性的な解決と人間的な態度に固執するということ」 という指針です(『意識と社会』P20)。


スチュアート・ヒューズ『意識と社会』
スチュアート・ヒューズ著 『意識と社会 ヨーロッパ社会思想 1890-1930』 生松敬三、荒川幾男共訳、みすず書房、初版1965年、改訂1970年、新装1999年。

もちろん、ヒューズは古い啓蒙主義への 郷愁で言っているのではありません。19世紀末、戦争の気配に怯えながら、 いつ来るかわからない戦争の足音に耐え切れず、 いっそ戦争をと望み始めていたような時代、 世界大戦という戦争のグローバル化に直面した時代、 ファシズムに飲み込まれていった時代。 ヒューズの中にあるのは、20世紀の新しい社会思想がどんなものになるにしろ、 それは理性を尊重したものであるべきだ、という「意識」です。 (「意識」を括弧付けにしたのは、 歴史における人間の主観的な意識・価値観の重要視は、 ヒューズとクローチェに共通していて、 それが『意識と社会』というタイトルに繋がっているようなので)。

クローチェは、終生在野の学者で、学位もなく大学教授にはつかず、 しかし議員や大臣などになった政治家でした。 ヒューズはどちらかというと現実志向で、 文学者は気楽でいいよな的なことも書いているので(苦笑)、 イタリアの難しい現実と向き合いながら 理性主義の伝統を受け継いだ思想を模索しつづけていた クローチェの評価が高くなっているのではないかと思います。

クローチェに関する伝記的記述を少々まとめてみます。

ベネデット・クローチェ(Benedetto Croce)は1866年、 アブルッツィのアクィラ地方(南部イタリアの北端の地域)の 富裕な家庭に生まれ、子供の頃にナポリに移り住んだ。 1876年、イタリア統一。 1883年、17歳のとき、イスキア島を襲った地震で両親が他界、 孤児になり、ローマの叔父シルヴィオ・スパヴェンタに引き取られる。 そして暗く惨めな3年間をローマで過ごした後、ナポリに逃げ帰る。 1893年、「芸術の一般概念に包摂される歴史」という論文を書き、 以後1913年まで、体系的研究の著作を精力的に続ける。 1910年、上院議員(終身身分)となる。1914年、結婚。 そして第一次世界大戦勃発。 ジオリッティ最後の内閣に入閣(社会教育省)。 1921年6月、ジオリッティ内閣は倒れ、その16ヵ月後に ムッソリーニが権力の座につく。 1925年、『反ファシスト知識人宣言』発表、 ムッソリーニに反対する立場を明確化。ムッソリーニはイタリアに自由な言論 があることの証拠としてクローチェを放置。 結果として1943年にファシズム崩壊した際、クローチェは イタリアの唯一絶対とも言える思想家となっていた。 戦後の自由党の衰退とともにクローチェの影響力も薄れるが、 文筆活動は継続。1952年、86歳で永眠。

クローチェは、おそらくこの時期には珍しく、精神的支柱を変えない 思想家であったというようなことを、ヒューズは所々で記しています。 そういう意味では、リースマン言うところのジャイロスコープ型人間の 典型であったように思えます。第一次大戦の際、ドイツを裏切って イギリス・フランス側につくための議論が紛糾した頃、 僅かに自信が持てなくなった以外は、クローチェは 概ね自分に確信的でした。 しかし、極めて揺るぎのない筈のクローチェが、彼の内面的葛藤を 語ったようなエピソードが紹介されていました。

こういう困惑のもとを解く第一の手がかりは、 クローチェ自身の自分についてのイメージに求められよう。 あるときかれはひとりの友人にこう尋ねたことがある、 「君は知っているだろうか、ぼくがふと夢想におちいったとき、 何を……心の底に見出すか、ぼくの心が安らぎを覚えて浸っている イメージがどんなものであるか。それは一七世紀のナポリの修道院なのだ。 そこには白い僧房と歩廊があり、 その真中にはオレンジとレモンの木の囲い地がある。 だが外では、実人生の虚飾と傲慢の騒乱が丈高い壁に空しくうちつけているのだ」
(『意識と社会』P153)

グレアムの、高い塀に囲まれた家への憧れは、立野の中では ずっとサリンジャーのイメージでした。しかし、ヒューズの上の一節を読んで、 本当はクローチェのイメージだったのではないかと思いました。 ヒューズは続けます。

クローチェは実人生が「騒乱」であり支離滅裂であることを知っていた。 しかし、かれは理性と論理の「丈高い壁」をたてることによって、 実人生の情熱的な奮闘を遮断、ないしは少なくとも方向づけようとしたのである。 それでもかれは不断にそうしつづけるにはあまりに現実主義的な思想家であった。 かれは、師のヘーゲルのように、人間の全歴史をきっちりとした枠組のなかに 閉じ込めようとはしなかった。支離滅裂な人生そのものが、 たえずクローチェのつくった概念の堤防を毀ち溢れた。
(『意識と社会』P153)

さて、『はみだしっ子』で引用されている例のクローチェの言葉の話です。 クローチェはこの言葉を19世紀末に記したそうですが、 それは『意識と社会』のラスト近くで引用されます。

われわれは、古代ギリシア人のようにこの世の生活の幸福なぞ…… もはや信じてはいない。 また、キリスト教徒のようにあの世の生活の幸福ももう信じていない。 さらに、前世紀のオプティミスティックな哲学者たちのように 人類の幸福な未来などもはや信じない。……われわれはそういったことどもは、 もはやなにも信じないのだ。
(『意識と社会』P288)

『はみだしっ子』でこの文章を読んだとき、立野は シュペングラーの『西欧の没落』のような、19世紀末的デカダンスの イメージを受けていました。しかし、上で見てきたように、 クローチェにはそのようなイメージはありません。 ヒューズは『西欧の没落』も取り上げていますが、 その評価はとても低いです。 それではどんなイメージなのでしょうか。

思想家が、社会の喧騒から離れ、自由に思索する、 浮草的自由人(Freischwebender)であることは、 20世紀には難しくなっていく、と、ヒューズは述べています。 開戦論者であり第1次大戦勃発1週間で戦死した思想家ペギー。 『暴力論』を書いたソレル。 自己の発言に対する社会的責任。 昔の哲学者は扱わなかったような主題に対するコミットメント。 20世紀の思想家は、現実と直面せざるを得ない、と。

そしてヒューズは、クローチェの言葉を、 そういう時代へ臆せず乗り出していく決意として引用しているのです。 そして、引用されたクローチェの言葉には、実は続きがあります。 立野が『意識と社会』を読んで一番嬉しかったのは、その続きが読めたことでした。 もしかすると、三原順さんは『はみだしっ子』の中で、 その続きのイメージを暗に示したかったのではないでしょうか。

クローチェの言葉は、こんなふうに続きます。

そして、われわれがたった一つもちつづけてきたものは自己意識であり、 その意識をもっと明晰にもっと明白にしようという欲求だけだ。 そしてこれを満足させたいという欲求が、 われわれを科学と芸術に向わせるのである。

(2002年6月25日 立野昧)

【追記】

ヒューズがクローチェの言葉を引用した趣旨ですが、 『はみだしっ子』の引用箇所と『意識と社会』の前節での話の関連に 気を取られて力点は後ろにあるのを見逃していました。 引用直前のヒューズの話はこんな感じです。

そこにおいて、想像力豊かな思想家たちが「かつての合理的現実観」 は不充分であり、人間の思想はもはや秩序整然たるシステムとは 考えられない現実に「譲歩」しなければならないだろうという結論に 達したのであった。この譲歩と適応の過程で、「人間の意識活動」 がはじめて最大の重大性をもつにいたった。
(『意識と社会』P288)

いやおうなく押し寄せる現実に正面から向き合っていくという 姿勢はもちろんそうなのですが、そのために「人間の意識活動」が かつてないほど重要になったという認識が、ヒューズとクローチェで 共通していて、それ故にヒューズはクローチェの言葉を引用している というのが直接の趣旨だと思います。

何だか抽象的な話になっていますが、また次のメモノートで。


(2002年6月29日 立野昧)

立野の三原順メモノート(43) (2002.6.29)

スチュアート・ヒューズ『意識と社会』(2)トーマス・マン

前回に引き続き、スチュアート・ヒューズ 『意識と社会 ヨーロッパ社会思想 1890-1930』から、 今度はトーマス・マンに関するメモです。

トーマス・マンの名は、確か『はみだしっ子』の中では直接には出てきません。 しかし、トーマス・マンに関する次のヒューズの文章を読んでいて、突然、 『はみだしっ子』との関連に気づきました。

『ヴェニスに死す』よりも、八年前に刊行された『トニオ・クレーガー』 Tonio Kröger の方がはるかによく、若きトーマス・マンの 野心と失意とを忠実に反映している。これは、著者の青春の さまざまな連想からの解放の物語であるとともに、 磨き上げられた秩序の、なんの問題もない世界へのたゆたう愛惜の情 をうたった物語りでもある。ある解説者の言葉をかりれば、 「芸術へと迷い込んだ一ブルジョワ、尊厳さへの郷愁的なあこがれを 感じている一ボヘミアン、心に痛みを覚えている一芸術家」の物語りである。
わたくしは二つの世界の間に立っている。 そしてこのどちらの世界にも安住しえない。 そのために悩んでいる……
わたくしは、あの偉大で魔力的な美の小径で数々の冒険をしとげ、「人間」を 軽蔑する誇らかな冷たいひとたちに目をみはる。 けれども、かれらをうらみやしない。 なぜなら、もしなにものかに一文士を詩人たらしめうる力があるならば、 それはほかならぬ人間的なもの、生命あるもの、平凡なるものへの このわたくしの俗人的な愛情なのだから。すべての温かさ、すべての善意、 すべての諧謔はみなこの愛情から流れ出てくるのだ……。
(『意識と社会』P249、太字は立野による)

太字部分のフレーズ、ピンと来られたでしょうか?  どちらも、『はみだしっ子』の中で使われています。

三原順『はみだしっ子』より
三原順『はみだしっ子』より (白泉社文庫第6巻P23、花とゆめコミックス第12巻P49)

グレアムは言います。

想像してみたことある?
秩序も規律も持たない集団で ひと度 適者生存が唱えられたなら
“適者”というのがどんな奴を意味するのか…
おそらくは自分に対して狂信的になれる奴…
そしてためらう事なく他人を殺せる奴だろうとボクは思う訳で…
だからボクは…
だからボクは…
ずっと……憧れてはいたんだ
相応の秩序を持った社会にはね…
(『はみだしっ子』白泉社文庫第6巻P21〜22、花とゆめコミックス第12巻 P47〜48)

背景は雪山事件のイメージ。 「ボクは…もう2度とあそこへは戻りたくないんだ」

この辺りのグレアムの言葉に対するトリスタンのマスターの言葉が、 「磨きあげられた秩序の、なんの問題もない世界へのたゆたう愛惜の情がだな」 でした。

もう一つは、前回のクローチェの文章の直後(次のページ)、 グレアムがヒューズ医師に話をしているシーンの中に出てきます。


三原順『はみだしっ子』より
三原順『はみだしっ子』より (白泉社文庫第6巻P267、花とゆめコミックス第13巻P137)

グレアムはヒューズ医師に話します。

つまり…先生達がマーシアの様な子供達に示される忍耐とか寛容さとかに… たぶん…その許容量に…彼らを許容し得る…人々や…社会に…
でも…他方ではボクは… こう…例えば羊の群れを殺すのに多くの狼は要しないでしょう? だから… 羊を守る為に必要なのは寛容さではなく… けれど…狼を噛み殺してしまった者は… どんなに憧れてももう羊ではなくなってしまい… そうした者は…何なのですか?
あの…ボクが…二つの世界に惹かれながら…どちらにも安住できないという事を…

そうした訳で、どうしてもトーマス・マンに興味が湧いてきます。

まず、『トニオ・クレーガー』ですが、これはトーマス・マンの 自伝的色彩の強い小説のようです。立野は読んだことがないので (^^;)、 例えば「Dear Mr. Iwanami...」 というサイトの トーマス・マンの項 をご参照ください。 作家と生活者という辺りで咄嗟に太宰治を連想してしまいましたが(苦笑)、 何となくイメージは掴めました。 このサイトで使われている「市民性」というものが、 現代日本人にはわかりにくいかと思いますのが その説明は飛ばして先に進みます(いつかどこかで)。

(といいつつ、ちょっとだけ。 クローチェが民主主義という言葉を避けていたという話とも 関連しているような気がします。しかし彼は、ファシズムと 戦う力を持った抵抗勢力である民主主義と手を組むようなことになります。 こういったことも、彼の丈高い壁に打ちつける現実だったのかも知れません)

ヒューズは、前述の引用の直後、次のように述べています。

大戦前のジードのようなひとびとと同じく、トーマス・マンもまだ かれの諸矛盾を調和にもたらすことができなかった。対立するものを じゅうぶんに和解せしめることになるのは、 ようやく一九二〇年代の中葉においてのことである。
(『意識と社会』P249)

という訳で、トーマス・マンの和解などが気になってきます。 ヒューズは『意識と社会』最後の章で再びトーマス・マンを取り上げます。 そこで彼の説明で後期トーマス・マンの『魔の山』を追ってみます。

『魔の山』の舞台はスイス・アルプス上の結核療養所。 主人公はハンブルクからきた青年技師ハンス・カストルプ。 世間とは隔絶された空間で、カストルプは二人の人間から教育を受ける。 トーマス・マン自身の言葉によると、こんな感じらしい。

「一種の教育小説。一人の青年が道徳的に危険な場に投出され、二人の 道化的教育者の間にはさまれる。ひとりはイタリアの文士でヒューマニスト、 レトリシャン、進歩の信奉者、他は、ちょっと評判のよくない神秘家、 反動主義者、非理性の鼓吹者である。」
(『意識と社会』P275)

前者イタリアのヒューマニストはゼッテムブリーニ。 後者非理性の鼓吹者はナフタ。ゼッテムブリーニとナフタの 弁証法的戦いは、ナフタの方がより説得的でありながら、 ゼッテムブリーニの勝利に終わる。ナフタは自殺。

思い切りはしょって書いたので非常に身も蓋もない感じですが (^^;)、 カストルプは非合理主義・非理性主義の誘惑を振り切って ヒューマニズムの側につく、という感じのようです。しかし、 第3の教育者、ペーペルコルンの問題は未解決に終わる。

ペーペルコルンの登場は、ファシズムの到来の象徴らしい。 第一次大戦のために、トーマス・マンは『魔の山』の執筆を一時中断せねばな らず、そして、『魔の山』が出版されるときには既にムッソリーニが 政権を取っていた。

さて、こうして見てくると、トーマス・マンの和解は ゼッテムブリーニ主導で行われる感じでしょうか。 しかし、今ひとつすっきりしません。ヒューズはこのあと、 バンダやマンハイムらを取り上げてそれはそれで重要なのですが、 ここでは『意識と社会』のラストまで飛んでしまいましょう。

ヒューズは書いています。

パレートは、価値は−−その起源がどんなに非合理的であっても−− 残基のカテゴリー以上のなにものかとして扱われうるということを、 ついに正当には理解しなかった。
(『意識と社会』P289)

人間の合理的な思考と、非論理的な行動の双方を、 同時に同じ重きを置いて取り扱うという超人的な仕事を成し遂げたのは マックス・ウェーバーであったと、ヒューズは言っているようです。

かれのみが、理性と非論理とはともに人間の世界の理解に 不可欠のものだという主張を持して揺るがなかった。 現実は非理性に支配されているが、ただ合理的な処理によってのみ それを理解可能なものとすることができるのだ、と かれはいっていたのだ。
(『意識と社会』P290)

ここで、ヒューズがパレートについて言っている言葉を借りて、 こんなふうにもじって言ってみたいと思います。

法律は−−その起源がどんなに非合理的であっても−− 残基のカテゴリー以上のなにものかとして扱われうるということを。
恋愛は−−その起源がどんなに非合理的であっても−− 残基のカテゴリー以上のなにものかとして扱われうるということを。

トーマス・マンや、ヒューズや、ウェーバーが、『はみだしっ子』に どう影響を与えているかは、これ以上触れずにおきます。 ただ、話の長い文脈の中で何らかの影響を与えていると、立野は思っています。


(2002年6月29日 立野昧)

立野の三原順メモノート(44) (2003.12.30)

侵略戦争の定義

「侵略戦争」に関する話が何故三原順メモノートに関係してくるのかは、 もちろん『はみだしっ子』の中で次のようなシーンがあるからです (おそらく説明は必要ないと思いますが一応)。

アンジー
ニュルンベルク裁判の?
おおよそは……そう…ナチの戦犯の大半は絞首刑
それに…終身刑…
継続裁判で軍人達の次に俎上にのせられたのは… ドイツの裁判官…医者…
グレアム
で…アメリカの主席検事はニュルンベルグで適用された法律は今後 あらゆる他の国民の“侵略戦争”に対し有効でなければならないと言った 起訴理由にもなったこの“侵略戦争”がサ
(中略)
裁判が始まる前 1945年8月のロンドン協定の規定を成文化の際 定義に苦しんだが!
ご存知の通り“正義”は行なわれ…
裁判の4年後だ…とどめは…
1950年!
国連の国際法委員会の担当者が言ったんだ
“侵略戦争の概念を定義する一切の試みはまったくの時間の浪費であろう”と
(コミックス第12巻 P80、文庫版第6巻 P54)

三原順『はみだしっ子』より
三原順『はみだしっ子』より (白泉社文庫第6巻 P56、花とゆめコミックス第12巻 P82)

『ニュルンベルク裁判〜ナチス戦犯はいかにして裁かれたか』
ヴェルナー・マーザー著 『ニュルンベルク裁判〜ナチス戦犯はいかにして裁かれたか』、 西義之訳、TBSブリタニカ、1979年。 原書 "Nürnberg : Tribunal der Sieger" Werner Maser, Droste, 1977.

おかのさんのリストにもあるように、 このアンジーとグレアムの会話している本はマーザーの本です。

「ニュルンベルクでこの曖昧さがまったく除去されたわけではなかったことは、 IMTの四年後、国連の国際法委員会の担当者が、 きわめて独自な言いまわしで言ったことでも明らかである。 一九五〇年、彼はこう言ったのだ。『この概念を定義する一切の試みは、 まったくの時間の浪費であろう』と。」
(ヴェルナー・マーザー著『ニュルンベルク裁判』P408)
(立野注:IMT…International Military Tribunal, 国際軍事裁判)

三原順さんがこのシーンを書いていた1980年当時、 この本は新刊として流通していたものと思えますが、 実のところ微妙に話が「最新」ではないです。 いつかそのことについて書きたい…ちゃんと勉強してから…などと 思っているうちに、しかし歴史は現在進行形で動きつづけていて…。 とにかく書くことにしました。 (ご存知な方も多いとは思うのですが)


まず書かねばならないのは、 「侵略戦争の定義」は一応存在することになっています。 1974年末の国連総会で決議されました。 今では大概の国際法の教科書にそういった決議があったことくらいは 載っていると思います。以下に第1条を引用します。

侵略の定義に関する決議
採択 1974年12月14日
国際連合総会第29回会期決議3314(XXIX)
第1条〔侵略の定義〕

侵略とは、国家による他の国家の主権、領土保全若しくは 政治的独立に対する、又は国際連合の憲章と両立しないその他の方法による 武力の行使であって、この定義に述べられているものをいう。

(注)この定義において国家という語は、
(a) 承認の問題又は、国家が国際連合加盟国であるか否かとは  関係なく用いられ、かつ、
(b) 適当である場合には、「国家群」という概念を含む
(山手治之・香西茂・松井芳郎編集代表『ベーシック条約集〔第3版〕』、 2002年、東信堂、P672)

全文については例えば http://www1.umn.edu/humanrts/japanese/JGAres3314.html 参照。

だから何? という程度のものではあり、 『ベーシック条約集〔第3版〕』の解説でも、 次のように説明されています。

第2次大戦後の国連憲章は、聯盟規約(立野注:国際連盟の規約)に対する 反省から、「戦争」ではなく「武力の行使」を禁止対象とし、さらに 「武力による威嚇」をも加えて禁止の範囲を拡大した。しかし他方では、 合法的な武力行使としての自衛権について明文の規定を置くとともに、 集団的自衛権という新しい概念を導入して、自衛権の範囲を拡大した。 いかなる行為が憲章第2条4項違反となるかについて、 憲章には規定がないので、1974年に侵略の定義に関する決議 が採択されたが、法的拘束力のある文書ではなく、安全保障理事会が 侵略を判断する際のガイドラインに過ぎない。
(『ベーシック条約集〔第3版〕』P668)

しかしとにかく1950年以降にもちゃんと「戦争の違法化」の歴史は 存在するわけで、そして、2002年には 「国際刑事裁判所(ICC, International Criminal Court)」 が発効されています。

国際刑事裁判所は、大量虐殺、人道に対する罪、 戦争犯罪などを裁く常設の裁判所です。 従来の国際司法裁判所が2国間の問題を裁くことしか出来ないのに対して、 個人を裁くことも可能です。 また、国連安保理が捜査を依頼した事件でなくても、批准国家の国民からの 訴えによって捜査を行うことができるため、大国からの依頼でなくても 捜査が開始出来ることも特徴です。

この協定は1998年7月にローマでの国際会議で採択されました。 139ヶ国が署名し、2002年4月に発効に必要な60ヶ国の批准が 成立し、2002年7月1日に正式発効となりました。しかし、 ブッシュ大統領が署名を撤回するなど、難問を抱えた船出となっています。 (参考→ 毎日新聞記事 2002.6.30 「国際刑事裁判所:設立条約が1日発効 現米政権は署名を撤回」/ 毎日新聞記事 2003.7.2 「国際刑事裁判所:協力の35カ国に軍事支援停止 米政府」)

この機構の存在自体が微妙な状況ではありますが、 現在進行形で色々なことが起きています。 (参考→ 毎日新聞記事 2003.7.29 「アテネ弁護士会:イラク戦争での行動で英政府・軍を告訴 」/ 毎日新聞記事 2003.8.22 「コンゴ虐殺:国際刑事裁判所検察総局が捜査へ 」)

なお、2003年末現在批准は92ヶ国あるようですが、 日本は批准も署名もしていません。 (参考→ 国際刑事裁判所問題日本ネットワーク

以上、ご存知の方も多かったとは思いますが、 侵略戦争の話についての注釈になります。 ずいぶん三原順さんの話とそれてしまった感じもしますが、 「はみだしっ子」が、 「侵略戦争の定義」と「戦争の違法化」の歴史は 1950年で終わってしまっているのだというような誤解を 与えつづけているのだとしたら、 それは三原順さんにとってきっと望むところではないと思うので…。


(2003年12月30日 立野昧)
(2004年1月28日 画像と引用を追加)

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(C) Mai Tateno 立野 昧