[三原順メモリアルホームページ]

立野の三原順メモノート第2集(1998年)


立野の三原順メモノート(13) (1998.1.23)

三原順さんは「はみだしっ子」の続編を描く予定だった?


立野の三原順メモノート(14) (1998.3.6)

パスカルと「夢をごらん」とグレアム

立野の三原順追悼文 (95年5月、三原順さんの死を知った時の自分の文章)で触れていますが、 はみだしっ子シリーズ「夢をごらん」を読んだとき、パスカル『パンセ』 のイメージを感じました。また、 後期のグレアムを感じさせるものもあるので、それらの話を書きます。

パスカル『パンセ』について

「夢をごらん」

グレアム〜法律の殆んどは慣習なのだし

三原順とパスカル

立野とパスカル

なんだか、三原順さんよりパスカルのことばかり語ってしまってすみません。
1998年3月6日 立野昧

立野の三原順メモノート(15) (1998.3.18)

チェリッシュギャラリー三原順1


立野の三原順メモノート(16) (1998.3.19)

エルトン・ジョンと三原順


立野の三原順メモノート(17) (1998.4.2)

三原順さんの死因について


立野の三原順メモノート(18) (1998.5.14)

グレアムの左手は何故痛むか


立野の三原順メモノート(19) (1998.5.28)

レディ・ローズ/マンゴ・ジェリー


立野の三原順メモノート(20) (1998.6.21)

故・小森編集のこと


立野の三原順メモノート(21) (1998.6.22)

狼への畏れと憧れ


立野の三原順メモノート(22) (1998.6.30)

オクトパス・ガーデン〜失われし041号を求めて


立野の三原順メモノート(23) (1998.7.18)

「はみだしっ子」最終回について(3)


立野の三原順メモノート(24) (1998.10.7)

『結ぼれ』『自己と他者』/RDレイン

三原順さんがRDレインの影響を受けていたことは多分もう かなり知られているでしょう。 立野がRDレインを知ったのは、実は三原順さんとは全然別の、 哲学者・中村雄二郎さんの著作からでした。 確か、ベイトソンらの「分裂病の理論へ向けて」という論文で出てきた 「二重拘束(ダブル・バインド)」の概念が、現代思想の中で 急速に広まっていた時期で、それに関連してRDレインが出てきていたのだと思います。 実際、RDレインの『自己と他者』の中では二重拘束も解説されています。

初めて買ったRDレインは 『好き? 好き? 大好き?』で、次に買ったのが『自己と他者』でした。 買った頃はまだ三原順さんとの関連は気付いていませんでした。 はっきりと意識したのは次の文を読んだときです。

「このことは、ある男の子がアパートの回りを走っているのを見た 警官の報告によって、劇的に示されている。その子がアパートの回りを駆けて、 二十回目に目の前を通り過ぎたとき、警官はついに、君は何をしているのかと尋ねた。 するとその子はいった。僕は家出をしようとしているんだよ、 だけどお父さんが道路を渡らせてくれないんだ──。この男の子の<自由空間>は、 このような父親の命令の<内在化>によって、削減されていたのである」
(RDレイン『自己と他者』志貴春彦・笠原嘉共訳、1975年、みすず書房、166ページ)

このエピソードは、「はみだしっ子シリーズ・山の上に吹く風は」の キャシーに使われていますよね。同じところをぐるぐる回っているキャシーを サーニンが不思議に思って声をかけるわけです。 ここではっきり「三原順さんもこの本読んだんだ、きっと」と思いました。

「結ぼれ」における図
RDレイン『結ぼれ』(村上光彦訳、みすず書房、1997年、1973年) 61ページより

『結ぼれ』は、『好き? 好き? 大好き?』に似ていることもあって、 買っていませんでした(そんなにお金なかったですしね…あの頃)。 でも、本屋でパラパラ見て、ああ、三原順さんも使っていた図式だ…と 思っていました。いつの間にか絶版になっていたらしいのですが、 昨年(1997年)、みすず書房の復刻シリーズに選ばれて、 新装版で再版されたので、今度はちゃんと購入しました。 「山の上で吹く風は」「奴らが消えた夜」などで使われた図式による説明の、 元になったであろう図が載っています。


これは余談ですが) 1年程前に立野が日記で書いた 「かわいいワガママ、かわいくないワガママ」の背景って、グレアムがマックスについて語るのとちょっと似てるんですよね…。 互いに相手の幸せを自分の幸せにするような人たちの集団を、 不幸のループ(「自分の好きな人が幸せじゃないから自分も幸せじゃない」の連鎖)の状態から、 幸福のループ(「自分の好きな人が幸せだから自分も幸せ」の連鎖)の状態へと 相転移させるための能力(?)と言うか…。 立野は「かわいいワガママ」にはその力があるのだということを 頭で納得するまで、そういうことが出来ませんでした。 今でも苦手は苦手なんですけどね (^^;)。

『結ぼれ』の序文でRDレインは述べています。

「おそらく、これらの模様はすべて、 不思議なほど見慣れた感じがするものと思われる」

世界に溢れる様々な模様が、「はみだしっ子」の中にも、 自分達の中にも存在するのは不思議ではないのでしょう。

RDレインは1989年に亡くなりました。 この時もちょっとショックだったのを覚えています。最後に、 RDレインの略歴をつけておきます。

R. D. Laing, 1927〜1989
1927年イギリスのグラスゴーに生まれる。 1951年グラスゴー大学医学部卒業。 3年間陸軍軍医となった後、グラスゴー王立精神病院、 グラスゴー大学精神科、ロンドンのタヴィストック・クリニックに勤務、 以後タヴィストック人間関係研究所に入り、 ランガム・クリニック所長を兼務、のち精神分析医として開業。 著書 『引き裂かれた自己』(1960、69) 『自己と他者』(1961) 『狂気と家族』(1964) 『経験の政治学』(1967) 『家族の政治学』(1967、71) 『好き? 好き? 大好き?』(1976) 『生の事実』(1976) 『レインわが半生』(1985) など。

立野の三原順メモノート(25) (1998.10.25)

孤独に至る病

「誰に対しても優しく公平に思いやる」という態度は 美徳として語られることが多いでしょうが、 真剣にそれを追い求める人はあまりいないように思えます。 おそらく、そのことを人より真剣に考えねばならない何らかの 心理的要因がある人を除いて…。

「誰に対しても優しく公平に思いやる」という人間は、 実社会では概して疎まれます。 自分達の仲間に有利に、仲間以外には冷たくなれる人間の方が 集団には溶け込みやすいのです。 「公平な思いやり」など、ある集団の優秀な構成員になるためには 実は却って邪魔なだけです。 例えば「夢をごらん」でいがみ合う街のどちらにも帰属できずに はみだしていく4人の姿にそういったことを感じます。

みんなのことを考えて理解しようとし、 優しく公平に接しようと求める人は、必然的に孤独への道を歩みます。 綺麗に(?)言えば一匹狼ですが、 誰とも親密な関係の築けない体質なだけと罵る人もいるかも知れません。

「誰に対しても優しく公平に思いやらないとね」と自分に説教した人が、 それを実行しているとは限りません。しかし、心理的な宿命により それを本気で受け取って、真剣に実行しようとしてしまい、 孤独さを感じている人は、いつか誰かにこう言うかも知れません。

「人の言う事をあまり真剣に受けとめ過ぎるんじゃないよ」

そんな人間が、自分の拠り所を「公平な視点」や 「どんな人間をも理解し優しく接している」ことに求めようとするのは 不思議なことではないでしょう。 しかし、それを突き詰めることが最大の落とし穴になります。

いくら自分が「公平」にしているつもりでも、 自分の認識できる世界には限界があるし、また、 判断には必ず主観が含まれてしまいます。 自分のすがる「公平な判断」も自分を守りながらの物でしかない 気がして来ます。そしてそれはそうなのでしょう。 「他人の気持ちを理解して思いやって」と言っても、 他人の心なんて結局わからないし、 わからないこそ他人なのだという方が正しいのでしょう。

公平さを求めて孤独になり、自分の求めていたものにもたどり着けない。

わかっている、けれど、そこで諦めてしまっては自分のアイデンティティが、 孤独な自分を支えてくれる拠り所が、根底からなくなってしまう、だから、 無理とわかっていてもそれが欲しい…………そう思った人は、 こんなふうに祈るかも知れません。

「どこへ行こう?
どこ迄行こう?
けれど…どうやって行こう?

ボクが行きたいのは向こう岸

橋をかけて…舟を渡して…けれどボクはどこにいる?
ここにいるボクは偽りのボク
偽りの手…偽りの言葉
それならば偽りの橋と舟

どうやって欺こう?
知っているボクをどうやって欺こう?

それともどうすれば……得られるのだろう?
虚像ではない橋と舟…目的地…そしてボク…
偽りではない真実のものを…どうすれば?」

公平さを求めて孤独になり、そして(たかが人間でしかない故に) 公平さにも辿り着けずに、自分の拠り所にさえ見放されてしまった、 そんな人間が、どうやって生きていったらいいのか?

三原順さんの作品にはそれが書いてある気がするのが、立野が 三原順さんを好きな大きな理由の一つだと思います。


立野の三原順メモノート(26) (1998.12.14)

「三原」というペンネームの由来

12月12日、13日と、東京で三原順展が開かれて、立野は入り浸っていました。 原画以外にも、たくさんの資料や当時の雑誌が置かれ、そこでの収穫はあまりにも たくさんありました。徐々にページに書いていきたいと思います。

『別冊花とゆめ』1981年夏の号だったと思うのですが、特集ページの中に 「初恋について」のような企画があり、高校の時に何度投稿してもダメだった頃、 「僕に見せられるような作品を描けばいいんだ」と 言ってくれた男の子の思い出とかを時代別に1コマくらいの大きさでちょこっと 並べてあります。その中に、中学生のころの思い出として、 「グループサウンズ全盛期、ジュリー!とは叫びませんでしたが、 ツナキ〜! とは叫んでいました」、というような記述があります (細部うろ覚えです、ごめんなさい)。 そして、グループサウンズのバンドが演奏している絵のコマの上に、

と書いてありました。(気付いて教えてくださったRMさん、感謝です)

これは、三原さんのペンネームの由来か? 「ミハラ」の上の点々がいかにも気になります。それにしても、 グループサウンズ時代に活躍したミハラツナキさんとは?

結局会場ではわからず、宿題として持ち越されたのですが、 ごーだまさんが三原順さんと同年代の知り合いの方にお尋ねしたところ、 ブルーコメッツのギタリスト「三原綱木」さんだとあっさり判明しました。 (ごーだまさんとお知り合いの方、感謝です)

ブルーコメッツについてウェブでサーチしてみたところ、 60年代通信 というサイトに色々紹介があるようです。 「『ブルーシャトー』レコード大賞受賞 30周年記念特別企画 ジャッキー吉川とブルーコメッツのすべて」というページのデビュー曲 「青い瞳」の解説から、少々引用させて戴きます。

「ロックンロール・コンボ・バンドとしてのブルーコメッツの歴史は、 1950年代まで溯らなければなりませんが、いわゆるグループサウンズとして、 ジャッキー吉川、小田啓義、高橋健二、井上忠夫、 三原綱木のメンバー5人が定着し、 ジャッキー吉川とブルーコメッツというグループ名で全国区の認知を得ることに なったのは、この事実上のデビュー曲「青い瞳」によってでありました。

1966(昭和41)年3月に英語版が発売され、フジテレビの音楽番組 「ザ・ヒットパレード」のディレクター・椙山浩一(すぎやまこういち)に 評価されたこともあって、番組の中で繰り返し歌わせてもらっているうちに、 本当に売れ始め、10万枚程度のヒットとなったものです。 同年7月には日本語版が発売され、こちらは50万枚を超える大ヒットを記録、 ブルーコメッツは一躍、全国的に知られる人気グループとなり、 この年の紅白歌合戦にも初出場することになったのでありました」

http://plaza8.mbn.or.jp/~60net/bluecomt.htm#blueyeen より(太字は立野による)

そして、1967年3月に発売された「ブルーシャトー」が100万枚を越える大ヒットとなり、 その年のレコード大賞を受賞するようです。

三原順さんは1952年10月生まれですから、1966年〜1967年は13才〜15才、 ちょうど中学生くらいになり、時代考証は合うようです。

これがペンネームの由来であるかは正確には不明です。 でも、この三原綱木さんが三原順さんのペンネームの由来であるとすると、 三原順さんの可愛い側面がのぞいている感じで、ちょっと面白いですね (^^)。

(一九九八年十二月 立野 昧)

追記)三原順さんに近しい方にお聞きしたところによりますと、 ペンネームの由来は三原綱木さんに間違いないだろうとのことです。


立野の三原順メモノート(27) (1998.12.26)

人の心を持たぬ子

子供の頃、立野はよく母親に、
「お前は他人を思いやる心がない」
「お前は人間らしい心がない」
と言われました。ごく些細なことでなのですが。 たとえば、自分の分だけお茶をいれたりすると、 「何故お父さんの分もついであげないの? お前は他人を思いやる心がない」 というように。親だけでなく、他の大人にも言われた気がします。

子供の頃、子供に幻想を持った物語に苦しめられました。

「誰でも赤ちゃんの時は空を飛べたのよ」
「赤ちゃんは動物やお花と話ができる」
「いつの間にかそれを忘れてしまっているだけよ」

立野は1歳の時の記憶もあるのですが、 空を飛べた記憶も動物と話した記憶もありません。 小学生の時、草や花や動物に必死に心で語りかけました。 自分は純粋な子供だと信じたかったのかも知れません。 けれど報われませんでした。

立野はそんな風にどこかしら人間性を否定されて育ちました。

どうしたら「人間らしい人間」になれるだろう。 どうしたら「優しい人間」になれるだろう。 一般的に「人間らしい」「優しい」と言われる行動を真似して…。 けれど、それは逆に「本当は人間らしくない」「本当は優しくない」 という思いを抱かせてしまうことになりました。

小学6年生の時、クラスの女の子が男の子にからかわれているうちに 机から消しゴムを落としました。 傍観していた立野は、それを拾って女の子に渡しました。
「優しいね」
その子はそう言ってくれたのですが、心の中で 「自分は本当は優しくなんかないんだよ」と感じていたのを覚えています。

「子供らしい」「純粋とされる」ものに、妙にひかれ、 興味を持った時期がありました。 人間性へのコンプレックスの一つの現われだったのでしょう。 しかし、「はみだしっ子」に出会ったとき、自分が本当に求めていた 物語はこれだったのだと思いました。

グレアムが葬式のときに笑ったために「人の心を持たぬ子」 として罵られるシーンには特に、並々ならぬ感情移入をしました。 グレアムが自分の善良性を信じられず、自分が悪いことをしないように 見張っていなければならないとか、自分は善良なのではなく 知識としてそういうことはしてはいけないと知っているだけだ と悩み苦しむ姿が、まるで自分を見ているようでした。

それ故に、ジャックがグレアムに言う、 「おまえの親がどうであろうと、おまえはもう自分の性格くらい 自覚して直す努力の出来る歳だな!」というセリフは 厳しく響いてきましたけれど。 自分はそれを読んだとき、既にグレアムより年上だったので (^^;)。

「はみだしっ子」を読むときに、立野はどうしてもグレアムの 「人間性へのコンプレックス」抜きに考えることが出来ません。 グレアムが人間性や善良性にこだわり続けるために、グレアムを 「人道主義者」「正義漢」「理想主義者」と捉える向きがありますが、 立野の目から見ると、グレアムが人間性や善良性にこだわり続けるのは、 グレアム自身がかつて「人の心を持たぬ子」「人殺し」と言われ苦しめられたが為に、 そういった事に人一倍敏感にならざるを得ないだけに見えます。

三原順さんは、立野の傷を自分に自覚させ、無闇に自分を否定すること無く 乗り越えてゆくきっかけを作ってくれた気がします。 今でも三原順さんは立野の苦しみの最初で最大の理解者である気がしています。

グレアムの誕生日によせて、少々私的なことを書いてみました。

(一九九八年十二月二十六日 立野 昧)

立野の三原順メモノート第3集(1999年)へ続く


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(C) Mai Tateno 立野 昧