今日、このホームページを見たという方からメールを頂きました。 三原順さんが亡くなられた頃に直接関係のあった方です。 その方のメールには、次のような情報が含まれていました。
「はみだしっ子2はビリーの森ジョディの樹の完結後にスタートする予定でした。 三原先生によると、あの話はまだ完結していないんだそうです。」
これを読んで、私は鳥肌がたち、ほとんど泣きそうになってしまいました。 いえ、泣きました。
うううううう…。
はみだしっ子の続編、賛否両論ありそうですが、私は読みたかったです。 やはり、三原順さんの中でもあの4人は確実に生き続けていたんですよね。 それがわかっただけでも、今は感謝するしかないのかも知れません。
でも、やっぱり切ないです…。
1998年10月7日補足) 「はみだしっ子」本編連載時の三原順さんの知人の中には 「はみだしっ子2」は有り得ないだろうと語る方もおられるようです。 もちろん、連載時からは何年も経っており、 三原順さんの中で何らかの変化があっても不思議はなく、 当時は描くつもりがなかったものの、発表の機会を与えられて 描く気になったということなのかも知れません。 ただ、三原順さんは当分「ビリー」のシリーズを描くご予定でしたようですし、 その後本当に「はみだしっ子2」をお描きになったかは、 「ビリー」すら未完のまま終わってしまった 今となってはわからないことなのかも知れません。
1999年4月30日補足) Mihara.Toへの寄稿(1)にある 「はみだしっ子打ち切り説について」 で否定のコメントが寄せられているので、 そちらも参照して判断していただけると幸いです。
立野の三原順追悼文 (95年5月、三原順さんの死を知った時の自分の文章)で触れていますが、 はみだしっ子シリーズ「夢をごらん」を読んだとき、パスカル『パンセ』 のイメージを感じました。また、 後期のグレアムを感じさせるものもあるので、それらの話を書きます。
ブレーズ・パスカル(1623〜62)は数学や 真空の実験、計算器の製作などでも知られていますが、 哲学者でもありました。 しかし、キリスト教弁証論についての本を完成しないまま亡くなりました。 死後、切れ切れの紙に断章の形式で書き留められた原稿の束が発見され、 それが編集されて、後に『パンセ』と呼ばれる書物となりました。
元が断片であるため並べ方は一意には定められず、 第一写本に出来るだけ忠実なもの、意味的に分類したものなど、 『パンセ』には色々な版があります。 立野がここで参考にしているのは、「世界の名著29 パスカル」 (前田陽一責任編集、1978年、中央公論社)です。 配列は、ブランシュヴィック版準拠です。意味的に分類されていて 初心者の読みやすい配列だとかで、広く採用されている版だそうです。
パスカルは思想史上、モラリストとして分類されるようです。 モラリストというと、はみだしっ子ファンには あまりいいイメージはないかも知れません。「山の上に吹く風は」に 「俺は批判して立ち去れるほどモラリストじゃないんだ」 というシドニーのセリフがありますから、 「モラリスト=批判して立ち去るやな奴」というイメージがあるかも知れません。 三原順さんがどこで(あるいはどの辺で)「モラリスト」という言葉に こういうイメージを形成したのかはわかりませんが、 思想史の言葉としての「モラリスト」とは異なるのかも知れません。ここで、 上記の本におけるモラリストの説明をちょっと引用しておきます。
「何よりもあるがままの人間の姿を見極めようとし、 そのためにあらゆる努力を惜しまない。多少の曖昧や矛盾の犠牲を払っても、 生きた現実との接触を決して失わないように努める。また、何が善く、 何が悪いと判断したり、何をすべしと目的を示したりする場合も、 それを立派な理論体系の結論として引き出すのでなく、現実の生の観察に即して、 しかもその観察と同時に行っているのである」 (「世界の名著29 パスカル」、P34、前田陽一責任編集、1978年、中央公論社)
『パンセ』から2つの断章を全文引用します。
次の断章は長いので一部だけ引用します。
私が「夢をごらん」を読んで、思い出したのはこれらの断章です。 設定が非常に似ていると思ったのです。
ブランシュヴィック版の『パンセ』は章だてがあって、 上記の断章は「第五章 正義と現象の理由」に収められています。 『パンセ』を読むとグレアムな気分になれることが多いのですが、 特にこの「正義と現象の理由」の章が顕著かも知れません。 先ほどの断章には、こんな記述も出てきます。
そしてこの章では、「正義と習慣」「正義と力」といったものが 繰り返し語られて行きます。 興味がある方は、読んでみられると面白いかと思います。
さて、ここまで書いてきて、では三原順さんはパスカルに 影響を受けていたかという点については、結局分かりません。 間接的くらいには知っていたかも知れません。
一番の違いは、宗教(キリスト教)への対応でしょうか。 パスカルは、合理主義から超越的信仰へと変遷していきますが、 三原順さんは最後まで無神論者だったのではないかと思います。
立野とパスカルの出会いはよく覚えていませんが、 たぶん中村雄二郎さんの本からパスカルへ入ったのだと思います。 中村雄二郎さんという哲学者は確か 「哲学を馬鹿にすることが真に哲学することである」 というパスカルの言葉が好きだったとか。 その話を聞いて、パスカルを読もうと思ったのだと思います。 高校時代に、古本屋で買った上記の本をよく読んだものです。
印象に残っているのは、上記の断章でも出てきた、
「理性だけに従えば、それ自身正しいというようなものは何もない」という言葉です。(立野にとっての)パスカルを一言で言い表している気がします。 パスカルはデカルトと同時代であり、まさに合理主義の時代を生きた訳ですが、 合理主義が絶対的に正しいものについては何も定めないということに誰よりも 早く気付き、その結果、彼は超越的信仰という立場を取りました。 私には彼を笑うことは出来ません。
また、印象に残っているのは、「人は一人死ぬであろう」という断章と、 「私は長いこと幾何学(自然科学)の研究をしたが、 そのことで他の人と通じあうことが少ないので嫌気がさし、 人間の研究を始めた。しかし 人間を知ろうとする人は幾何学を知ろうとする人より少なかった。 人間にとっては、自分を知らないでいるほうが、 幸福でいるためにはよいのだろうか」というような断章です。
この文章を書くのに久しぶりに上記の本を開いて、 没年を調べるのに年表を見ました。彼が病気で亡くなった年に、 こんなことが書いてありました。
「一般市民の交通の便を図るため、また、それによる利益を病院に寄付するために、 画期的な試みとして乗合馬車を始めようとし、国王の許可を得る。 三月十八日、乗合馬車、五スー均一料金で開通。六月、病状悪化」彼は、人間のありのままを見つめていたけれど、 決して悲観ばかりしていた訳ではないのだと改めて気付きました。 彼は本当に幸せなキリスト者として死んだのかも知れません。 年表の最後に「すばらしいね」と付け足したくなりました。
三原順さんのチェリッシュギャラリーの最初の方、持っていなかったのですが、 先日地方の古書店で見つけたという友人から譲って頂きました。 中は完璧だったと思います。差し出し有効期限が昭和54年11月20日の お買い上げアンケート葉書まで入っていました(ありがとうございます)。
白黒4枚の原画の選び方に、ああ、なるほど…と思ってしまいました。 「動物園のオリの中」の「見世物になったのは僕たち」というページ、 「だから旗降るの」の表紙、「残骸踏む音」のラスト、「奴等が消えた夜」で グレアムとマックスが再会するシーン。
三原順さん、こういったシーンが好きだったのでしょうか?
あと、グレアムの青いカラーイラストの隅っこに Image by 「GEORGIA」という書き込みがあって、 これは多分、エルトン・ジョンの「ジョージア」 という曲のイメージなのだと思いました。78年の 『A SINGLE MAN』というアルバムに入っています。こんな曲です。
「例えば Oh Georgia 南部 (southlands) に連れていっておくれ
人生をやってるって感じがするよ
Oh Georgia 穏やかな気分にしておくれ
僕は死ぬ前に もう一度味わいたいんだ」
「チェリッシュギャラリー三原順1」でも イラストのイメージがエルトン・ジョンの歌から来ているのではないかという話に 触れましたが、三原順さんがエルトン・ジョンを好きだったらしいことは 随所に現れています。
例えば、「ルーとソロモン」シリーズのサブタイトル 「イエス・イッツ・ミー」は、 1969年のシングル「It's Me That You Need」の邦題です。
「ルーとソロモン」シリーズのサブタイトルは、 音楽から取ったものが多いようですね。ピーター・ポール&マリーの 「レモン・トゥリー」は間違いないでしょうし、 「ソロモン・ウォーカーは悪い奴」は、もしかするとジム・クロウチの 「リロイ・ブラウンは悪い奴」ではないかと思っています。
「はみだしっ子」の中でも、エルトン・ジョンが使われています。 「つれて行って」の中で、グレアムがトリスタンで
「ねぇ、ダナ。拍手って飛べない鳥のはばたきのようだね」と歌う曲。
And it's all over now (あの騒ぎも過ぎたことさ)これは間違いなく、エルトン・ジョンの 「ベイビーと僕のためのブルース(Blues for baby and me)」だと思います。 1973年のアルバム『ピアニストを撃つな! (Don't Shoot Me I'm Only The Piano Player)』に入っています。
Don't you worry no more (もう悩むのは止しにしよう)
Gonna go west to the sea (今から行く西海岸の夢でも見ようぜ)
The greyhound is swaying (ほら、バスも快調だ)
And the radio is playing (ラジオからはいい音楽が流れている)
Some blues for baby and me (僕と君とを祝ってのブルースだ)
エルトン・ジョンは昨年(97年)のダイアナ妃の件でも注目されましたし、 世界ツアーもやっていることからか、 すべてのCDが廉価盤で再発されているようで、 現在大変入手しやすくなっています。 立野もエルトン・ジョンは殆んど聴いたことがなかったのですが、 これを機会に何枚かCDを買って聴いてみています。
他にも心当たりのある曲がありましたら、是非ご一報下さい。
花束ページへの書き込みで、三原順さんの死因についての話が あったので、触れておこうと思いました。
立野が受けた情報を列挙しますと、まず95年の噂の真相誌で、 自殺説も囁かれているという情報がありました。これは、単なる 噂だと思います。
97年に Quick Japan という雑誌に、紫崎美衣さんという 「はみだしっ子」ファンクラブの方が書いた、三原順さんの 自殺説を否定する小文があります。
ここの花束ページへの書き込みでは、 「白泉社に直接電話して何故亡くなったのか 聞いたんですが、 服用していた薬の飲みあわせが悪くて 亡くなったって聞きましたが」 という話がありました。
しかし、白泉社が正確な情報を持っていたかは不明です。 当時白泉社に三原順さんと密に連絡を取るような担当者はいなかったからです。
より信頼できる情報によりますと、この薬の飲み合せの話はおかしい と聞きました。直接の原因は急性心不全で、 「当時、三原順さんが服用していた薬は血圧を下げる薬だけです」 とのことでしたので。
どの情報を信じるかは、結局自分で判断するしかないのでしょうが…。
個人的には、三原順さんが絶対に自殺をする可能性のない人で あったかは自信がありませんが、作品を書きかけのまま 自殺するということは有り得ないのではないかという想像から、 自殺ではないと思っています。
この話、以前MLで書いたことがあったので このページでもとうに書いたつもりになっていました。 グレアムの左手が何故痛むのかについては、 はみだしっ子を最初に読んで以来、自分でも随分考えました。 訪問者ページでこの件に触れていた方がおられたので、 ここで立野の意見を述べておきます。
グレアムが左手を苦しみ出す(コミックス)4巻までを、 左手に注目して読み返して、これだ!と思ったのが、 グレアムのおばちゃまが左手首を切って死んだシーンです。
他に決め手のシーンが見当たらなかったと言うのも大きいのですが、 グレアムにとって、おばちゃまの自殺は重い原罪になってしまっている筈です。 そこにフロイト的な精神分析を当てはめると、 グレアムの左手が痛むのは手首を切って死んだおばちゃまの記憶のせいだ、 ということになります。
今一つ説得力に欠るかも知れませんが、フロイトなどの精神分析の話を 読んだことのある方なら、なんとなく通じるかと思うのですがどうでしょうか。
「山の上に吹く風は」でグレアムの精神がおかしくなりますが、 この時の症状は、R.D.レインの『自己と他者』 第1部 5、「死の冷たさ」 に出て来る女性のケースをヒントにしたと 思われます。 恐ろしい嵐に一晩中おそわれ、それがいわゆる夢であったにも関わらず 一睡もしていなかったと確信していたとか、 何もかもが望遠鏡を逆さにのぞいたように小さく見えるとか、 身体的に異常はないのに、自分が死にそうに感じられるとか、 その辺の症状がグレアムに使われています。
それで、その女性が現実にたち戻った時、自分自身で見つけた 症状の原因がこの本には載っているのですが、一例を挙げると次のような 経験と症状の対応づけがなされています。
「ねじれていると感じられたが正常に見える彼女の舌」 は「命とりになった一連の脳卒中の際の父親の舌」
三原順さんはそういった症例をご存知の上で書いたわけですから、 おばちゃまの左手首とグレアムの左手首を関連づけるのは、 解釈として充分成り立つと思います。
そういう訳で、何故左手が痛むのかを作品の中に求める限り、 自分のために左手首を切って死んだおばちゃまへの罪悪感が 彼の左手首に刻み込まれているからではないかと立野は思います。
そして更に踏み込んで言うと、 「自分は人間性の欠如した人殺しであるという罪悪感(コンプレックス)」が グレアムの心の底に重く沈んでいて、 再び自分のために他人が死ぬような状況に陥ったとき、 (それはたとえばギィが死んだとき、たとえば牧師が3階から転落したとき)、 グレアムのコンプレックスは揺り動かされ、 呪いのように左手が痛み出すのだと思います。
以上が、グレアムの左手が何故痛むのかについての立野の意見です。
以前MLで話題になった話なのですが、はみだしっ子シリーズ Part II 「動物園のオリの中」に、次のような書き込みがあります。
「BGM NIWA "LADY ROSE" O OTUKAIKUDASAI! HURUI KYOKUDESUGA…」
コミックスでは第1巻P38、文庫では第1巻P44、 マックスがレディ・ローズに手渡している新聞に書いてあります。
つまり、「LADY ROSE」という歌があって、それをBGMにして読んでね、 ということらしいのです。それで探してみて、70年代に Mungo Jerry という人が「LADY ROSE」というヒット曲を出していることがわかりました。
その音源がなかなか見つからなかったのですが、昨日渋谷WAVEにて オールディーズのボックスもののタイトルを漁っていたところ、 70年代のヒット曲集3枚組CDの中に見つけ、衝動買いしてしまいました。
どうも装丁からしていい加減そうなCDの気はしていたのですが (^^;)、 英詩はおろか、各曲の発売年のデータすら記されていないのは悲しかったです。 でも、他で見つけたことが全くなかったので、音源が手に入っただけでも かなりの収穫でした。
曲調は明るくて、ハーモニカが入ったりします。 ボーカルは少し高めの男性の声です。サビのところで、 「オー、レイディローズ、アー、レイディローズ」と 繰り返し歌っています。 (すみません、それ以外の歌詞、聞き取れてないです ^^;)
曲についての情報(どこそこのサイトに歌詞があるとか)、 Mungo Jerry という人についての情報、何かご存知の方は是非ご一報ください。
1998.6.21 追記)BBSに寄せられた情報より、71年の曲だとわかりました。 「動物園のオリの中」が75年ですから、時代的な考証は一応合うのですね。 日本で出ているかは判らなかったですが、ベスト盤なども存在するようです。 情報お寄せいただいた方、ありがとうございました。
花束ページかBBSだったか、漫画の原作者は編集者なのではないかという ご意見があって思い出したので書きます。
個人的知り合いに少年週刊誌で漫画を連載している方がいまして、 その方の話を聞く限り、確かに編集者さんに依るところは大きいと感じました。 しかし、雑誌や出版社の傾向、少年誌と少女誌、漫画家それぞれ、編集者それぞれ、 双方のキャリアなどに依って比重は色々だと思います。
三原順さんは投稿時代、あまりに個性的なためデビューが遅れました。 デビュー以後も三原順さんの才能を生かしつつ商業誌での作品として 成立せしめるために、編集者さんの技量が不可欠であったことは 想像に難くありません。
三原順さんに関して思い出すのは、白泉社で長い間三原順さんの才能を信じ、 根気よく三原順さんと作品を練り上げつづけた故・小森正義編集のことです。 小森さんについては『Sons』第7巻の巻末において 三原順さんが謝辞を書いているので引用しておきます。
「そしてこの作品を 私を本格的にマンガにのめり込ませた張本人だった
白泉社の故・小森正義様に捧げます。
この作品が小森様の望む様なマンガから逸れてしまっていたとしても、
そして私の望みにさえ到達してはいないのですが、それでも
私が現在も書き続けていられるという事、その為の機会と数々のご教示を
与えてくださった事に 心よりの感謝を申し上げ ご冥福をお祈り致します」
「はみだしっ子語録」で三原順さんがついつい悪態をついてしまうと述べている 「そして門の鍵」から現在に至るまでの担当様というのがこの方だと思うのですが…。
「何より、もし今見捨てられたなら、編集部中もう誰も私の担当をして 下さる方はいないと…察知してしまっている今日此の頃。どうかまだ引導を 渡さずにいて下さいますように!」
(「はみだしっ子語録」より)
小森さんと三原順さんのお別れは引導ではなく、小森さんの死でした。 『Sons』連載中のことだったようです。 そして、三原順さんの「察知」は冗談ではなく当たってしまったらしく…。 小森さん亡き後、三原順さんの『Sons』には担当らしい担当がつかなかったようです。
『Sons』が掲載されていた「花ゆめEPO」の休刊と、『Sons』の連載終了は 同時でした。当時私は 「三原順さんほどの大家の作品なのだから、 『Sons』の終了を待って休刊になったのであり、 打ち切りのようなことは有り得ない」 と信じていました。
しかし、現実には休刊が先に決まり、三原順さんはそれに合わせただけだったようです。 小森さんという理解ある後ろ盾を失った三原順さんには、 掲載誌を替えて連載を続けるという選択肢は難しかったのかも知れません。 『Sons』はEPO休刊と共に終了し、 そして三原順さんは白泉社を離れることになります。 それだけ、小森さんの力が大きかったということなのだと思います。
三原順さんが作品を描きつづけることに 多大な労力を払ってくださった小森様に、 三原順さんの一ファンとして、感謝の意を表明したいと思います。
はみだしっ子後期から『Sons』まで、三原順さんの作品の随所に 「狼」が現われています。重要なキーワードなのでしょうが、 広範に渡るテーマなので簡単には書きにくく、今まで後回しにしてきてしまいました。 けれど、一気に書けなくても少しだけでも書いておくことにします。
三原順さんは『ムーンライティング』第2巻の「あとがき」で、 『X-Day』のダドリーと『ムーンライティング』のダドリーは一応別人で… という話を書いています。何故そうなってしまったかについては次のように 説明されています。
「オオカミの幽霊がちょこちょこルドルフの所へ遊びに来てしまう…様な話を 作って遊んでいたのですが、ルドルフには動物愛護の精神が欠落しておりまして ちっともそのオオカミをかまってやらない…で…オオカミがダドリーとばかり遊ぶ様に なってしまいまして、だんだん不愉快になり、どんどん目障りになり…
『おまえら! どっか他所へ行っちまえ!!』
という訳でルドルフがいるのとは別の世界…ということになりまして…
作者が「おじさん顔」のスペアを持っていなかった為、ダドリーの顔はそのままに 据え置き…"なら名前だけ変えても仕方ない"…と綴りだけいじり…"だったら性格も出生も まぁそのまンまでいいや"…と手を抜き……狼は移動中に歪んでしまったし… ダドリーも頭のねじが何本か とんでしまった様なのですが…このシリーズになりました」
狼が移動中に歪められた結果、トマスは(可哀相に)豚男にされてしまった ようなのですが、もしかすると遊びに来る狼の幽霊の話というのは、後に ダドリーの空想の狼男の話に生きているのかも知れません。
三原順さんは上と同じあとがきの中で、とある本によると 「ルドルフというのは"誉れ高いオオカミ"の意味なんだ」 と書いています。 すると、ダドリーの空想に出てくる狼男ルディの名は、 もしかするとルドルフから来ているのかも知れないですね。 (『X-Day』のルドルフは認めないでしょうが ^^;)
それでは、三原順さんは狼にどのようなイメージを持ち、何故惹かれたのでしょうか? 大きなヒントは「はみだしっ子」で使われる狼と羊のイメージにあると思います。
一つの見方として、狼は加害者で、羊は被害者です。 「はみだしっ子」において4人は最初、純度100%の被害者だったのですが、 雪山で一人の男を殺してから純粋な被害者ではいられなくなってしまいます。 だからグレアムは問いかけなければならなかった。
「狼を噛み殺してしまった者は…
どんなに憧れても もう羊ではなくなってしまい…
そうした者は… 何なのですか?」
もしかすると「狼を噛み殺してしまった羊」には、 リッチーも含まれるのかも知れませんが、ここではそこには 深入りしないことにしておきます。三原順さんは徐々に羊への憧れ から遠のき、狼へ憧れて行くようです。『はみだしっ子全コレクション』における くらもちふさこさんとの対談の最後の方で、今後の執筆の方向について 三原順さんは次のように語っています。
「同情票はもらえそうもない性格の人物へ傾いて行きそう。 加害者的な感じの独力で生きる風な」
そして実際、ルドルフやウイリアムなど多くのキャラクタが オオカミ系の人物として描かれて行くのです。
1982年の『はみだしっ子全コレクション』に掲載された 「オクトパス・ガーデン」は、 「つまりはみだしっ子とはこういう話だったのですよ」 と結ばれる三原順さん自身による「はみだしっ子」の別描写のような作品でした。 当然、難解と言われる「はみだしっ子」を読み解くテキストとして 多くの方が読んだでしょう。立野も何度も読み返しました。 しかし、立野にとっては結局本編の方が馴染みやすく、 「オクトパス・ガーデン」を無理には解釈しないようにしていました。 そんな訳で「オクトパス・ガーデン」について立野が持つ解釈というのは 少ないのですが、本編の話とも絡めて少し記しておきます。
立野が「オクトパス・ガーデン」を理解するために出発点とした 対応づけが二つあります。 一つは、グレアムが育てているペンギンは本編に登場するペンギンたち (グレアムの頭の中で多数決をやったりなんだりしているペンギンたち)と 同じではないかという対応づけです。 こう考えるとペンギンたちは、グレアムが物事を考えたり 現実に接したりする時に、こんな見方もあるよ、こういう捉え方もあるよ、 と教えてくれる考え方の指針のようなものではないかと思えてきます。
二つ目の出発点は、S.S.S.(スウィート・サニー・サウス)です。 「オクトパス・ガーデン」の中でグレアムが暴発しかしない散弾銃を持って トンネルを掘って目指すのは「スウィート・サニー・サウス」です。 そこでグレアムは041号を食った(はずの)アザラシに会うのですが、 アザラシは「041号なんて食わなかった」と言います。 ここでお気付きの方も多いかと思いますが、はみだしっ子本編でも スウィート・サニー・サウスという言葉が出てきます。 ミス・フェル・ブラウンが宿泊していたホテルの名前が 「S.S.S.(スウィート・サニー・サウス)」なんです。 だからここはかなりはっきりした対応がつけられます。
ここから立野の独自色の強い解釈になって行きますが、 まず、おおよそ次のことは言えるのではないでしょうか。
それでは、雪山でグレアムが失った041号とは何だったのでしょうか。 「オクトパス・ガーデン」によれば、それはグレアムにとって 特別な思い入れのある大事な「何か」であった筈です。
立野の推測としては、 「人殺しは絶対にしてはいけないという気持ち」、 「殺人者は裁かれて、然るべき罰を受けなくてはいけないという気持ち」、 「殺人者は責められなければいけないという気持ち」、 「僕らは人殺しだけはしてないという自負心」、 「人間性へのコンプレックスが産み出した呪いのような善良性」 …のようなものだったのではないかと思いました。
グレアムは雪山での殺人を忘れることがどうしても出来ません。 忘れていく自分が許せません。周囲が忘れろと言うほど、 忘れられないグレアムは一人で自分を責め続けることになります。 フランクファーターならグレアムを無罪にできたでしょう。 しかし仮にフランクファーターに無罪にして貰っても、 やっぱりグレアムは自分を許せないでしょう。 そしてアルフィーのことを考えれば裁判には出来ないという制約。 グレアムがジャックをもっと信頼していたら、アルフィーのことを含めて 相談することも出来たかも知れません。 しかしおそらく、グレアムはジャックにすべてを解決して貰っても、 自分で自分が許せるかは別問題として残り続けたのではないでしょうか。
グレアムにとって、人を殺しておきながら自分が(自分たちが) 全く責められていないことが最大の不満だったのかも知れません。 そして彼は、自分が責められることによって自分の041号を取り戻すために、 自分を責めて然るべき人物=被害者の遺族= ミス・フェル・ブラウンに会いに行きます。
しかし、ここでもグレアムは許されてしまいます。
「義兄さんはただ可哀想に死んでしまったのよ」
「忘れて生きましょう」
「自由になって」
それでもグレアムは死体を忘れて自由になることは出来ません。 グレアムの041号は帰ってきません。
「海が呼んでいます」
「おいでおいで 041号がいるよ」
自分が死ねば…人を殺したものが応報の論理によって裁かれれば… もう一度041号に会えるかも知れない。
グレアムは041号を求めて海に飛び込みます。 しかし、それが最後の抵抗でした。
グレアムは自分の041号を取り戻すためにすべてのものを犠牲にしてきたので、 生き残っても、もう何も残っていませんでした。 結局041号も見つからないままです。
もう何もするまい…というグレアムは、けれど 「フランクファーターは嫌だ」という思いから、 またペンギンの卵を手にしてしまいます。
新しく生まれてくるペンギンがどんなペンギンになったかはわかりません。 もしかしたら041号に似ているかも知れないし、 似ても似つかないペンギンかも知れません。
いずれにしろ、グレアムが生きていくためにはそういうペンギンたちが 必要だったのではないかと思います。
◇ ◇ ◇
少しだけのつもりが長めになってしまいましたが、以上が 「オクトパス・ガーデン」あるいは「はみだしっ子」についての 立野なりの一つの解釈です。ただしこれはあくまで一つの解釈で、 立野自身、別の流れで「はみだしっ子」を記述することは出来ると思います。 上の文章は、「041号とは何だったのか」という切り口から立野が考えて出てきた 解釈です。
なお、この文章では「オクトパス・ガーデン」における 「魚」「調理された魚」「グレアムのお腹に詰まっていたもの」「磁石」 などが何かについては触れていません。 正直言うとあまり考えないようにして逃げていたので、良く分からないんです (^^;)。 ただ、これらについて、Mihara BBS で引き合いに出してみたところ、非常にたくさんの意見が寄せられて、 自分でも色々気付かされました。書き込んでくださった方々には本当に感謝です。 これらの意見は、例えば 「グレアムは最後に真実を語ったのか?」 や 「 オクトパス・ガーデンについて」 のスレッド(一連の話題)で触れられています (現在進行形で話題が延びていますので、新しい投稿については入り口 Mihara BBS からチェックした方が良いかも知れません)。 気になる方は是非そちらもご一読下さい。
『Sons』では、DDの空想の中で、立ち尽くしたまま動けない案山子が出てきます。 DDは時々、立ち尽くして動けない自分を案山子のように感じます。
「なぜオレはこんな所で磔にされたままいなければならないのか」
この問いへの答えを探します。DDの夢の中で、狼男ルディは言います。
「だってこの案山子には歩く足がないんだよ」
DDはそのルディのセリフが自分を嘲笑しているような気がして、 なんとなく嫌な感じがします。
ラスト近く、倒れて動けない案山子の胸の下から、 一匹のカエルが飛び出して言います。
「カエルでいいのなら!
人間らしそうなフリをしなくていいなら!
いくらでも歩けるぞ!」
先日『Sons』を読み返していて何度目かにこのシーンを読んだとき、 ふと、このセリフが一番欲しかったのは、 DD以上に、グレアムだったのかも知れないと思いました。 人間性と善良性に苦しんで動けなくなったグレアムにこそ…。
三原順さんの作品には、しばしば人間性への考察が現れます。 「僕が座っている場所」のラストなど、重要な場面で。 一つの大きなテーマだったのだと思います。
ところで、「はみだしっ子」の最終回について、しばらく前から知っていながら、 インパクトが大きすぎるためにホームページに書いていなかったことがあります。 既にどこかで聞いている方もいらっしゃるかと思いますが、 なるべく落ち着いて聞いてください。
「はみだしっ子」は、打ち切りで終わりました。 人気が落ちたとかではなく、編集長交代の余波です。 新しい編集長が何故「はみだしっ子」の打ち切りを決めたか、 本当の胸中はわかりません。ただ、噂から推測するに、 三原作品への理解や愛着の薄い方ではあったようです。
「ビリーの森ジョディの樹」の完結後にスタートする予定だった 「はみだしっ子2」は、未完結のまま描けずに終わった「はみだしっ子」の 本当のラストを描いたものになる予定だったそうです。
改めて、三原順さんの死を深く悲しみます。
1998年10月7日補足) 当時を知る方からの話では、「絶対に打ち切りではない」というコメントが 寄せられています。正直言って、誰のどの言葉を信用したらいいのか 自分でもわからない心境です。
自分としては、「打ち切り説」を聞いた後に読み直して、 やはり作品のラスト近くの展開が異様に早いことからその説を信用しました。 特に、アンジーが「グレアムが何故死なせてくれなかったって俺を責めるんだ…」 と泣くシーンは(細部うろ覚えですが)、グレアムが責めているシーンがないのに 突然アンジーがそう言い出すので、何度読んでも不自然に感じます。
連載漫画が終わるときには多かれ少なかれ「打ち切り」の色彩があるのだという 話も(一般論として)聞きました。 「要は、連載終了が決定してから実際に連載が終わるまでに どれだけの時間とページ数が与えられるかの違いに過ぎないのだ」と。 その猶予を長いと感じるか短いと感じるかは、人によって違うだろうし、 編集サイドが充分な猶予を与えたつもりでも、描く方は足りなかったと 感じているかも知れない…と。
「打ち切り」はあくまで「説」ということで、 その辺を考慮して読んで戴けると幸です。
1999年4月30日補足) Mihara.Toへの寄稿(1)にある 「はみだしっ子打ち切り説について」 が否定のコメントの詳細です。
三原順さんがRDレインの影響を受けていたことは多分もう かなり知られているでしょう。 立野がRDレインを知ったのは、実は三原順さんとは全然別の、 哲学者・中村雄二郎さんの著作からでした。 確か、ベイトソンらの「分裂病の理論へ向けて」という論文で出てきた 「二重拘束(ダブル・バインド)」の概念が、現代思想の中で 急速に広まっていた時期で、それに関連してRDレインが出てきていたのだと思います。 実際、RDレインの『自己と他者』の中では二重拘束も解説されています。
初めて買ったRDレインは 『好き? 好き? 大好き?』で、次に買ったのが『自己と他者』でした。 買った頃はまだ三原順さんとの関連は気付いていませんでした。 はっきりと意識したのは次の文を読んだときです。
「このことは、ある男の子がアパートの回りを走っているのを見た 警官の報告によって、劇的に示されている。その子がアパートの回りを駆けて、 二十回目に目の前を通り過ぎたとき、警官はついに、君は何をしているのかと尋ねた。 するとその子はいった。僕は家出をしようとしているんだよ、 だけどお父さんが道路を渡らせてくれないんだ──。この男の子の<自由空間>は、 このような父親の命令の<内在化>によって、削減されていたのである」
(RDレイン『自己と他者』志貴春彦・笠原嘉共訳、1975年、みすず書房、166ページ)このエピソードは、「はみだしっ子シリーズ・山の上に吹く風は」の キャシーに使われていますよね。同じところをぐるぐる回っているキャシーを サーニンが不思議に思って声をかけるわけです。 ここではっきり「三原順さんもこの本読んだんだ、きっと」と思いました。
RDレイン『結ぼれ』(村上光彦訳、みすず書房、1997年、1973年) 61ページより 『結ぼれ』は、『好き? 好き? 大好き?』に似ていることもあって、 買っていませんでした(そんなにお金なかったですしね…あの頃)。 でも、本屋でパラパラ見て、ああ、三原順さんも使っていた図式だ…と 思っていました。いつの間にか絶版になっていたらしいのですが、 昨年(1997年)、みすず書房の復刻シリーズに選ばれて、 新装版で再版されたので、今度はちゃんと購入しました。 「山の上で吹く風は」「奴らが消えた夜」などで使われた図式による説明の、 元になったであろう図が載っています。
これは余談ですが) 1年程前に立野が日記で書いた 「かわいいワガママ、かわいくないワガママ」の背景って、グレアムがマックスについて語るのとちょっと似てるんですよね…。 互いに相手の幸せを自分の幸せにするような人たちの集団を、 不幸のループ(「自分の好きな人が幸せじゃないから自分も幸せじゃない」の連鎖)の状態から、 幸福のループ(「自分の好きな人が幸せだから自分も幸せ」の連鎖)の状態へと 相転移させるための能力(?)と言うか…。 立野は「かわいいワガママ」にはその力があるのだということを 頭で納得するまで、そういうことが出来ませんでした。 今でも苦手は苦手なんですけどね (^^;)。
『結ぼれ』の序文でRDレインは述べています。
「おそらく、これらの模様はすべて、 不思議なほど見慣れた感じがするものと思われる」世界に溢れる様々な模様が、「はみだしっ子」の中にも、 自分達の中にも存在するのは不思議ではないのでしょう。
RDレインは1989年に亡くなりました。 この時もちょっとショックだったのを覚えています。最後に、 RDレインの略歴をつけておきます。
R. D. Laing, 1927〜1989
1927年イギリスのグラスゴーに生まれる。 1951年グラスゴー大学医学部卒業。 3年間陸軍軍医となった後、グラスゴー王立精神病院、 グラスゴー大学精神科、ロンドンのタヴィストック・クリニックに勤務、 以後タヴィストック人間関係研究所に入り、 ランガム・クリニック所長を兼務、のち精神分析医として開業。 著書 『引き裂かれた自己』(1960、69) 『自己と他者』(1961) 『狂気と家族』(1964) 『経験の政治学』(1967) 『家族の政治学』(1967、71) 『好き? 好き? 大好き?』(1976) 『生の事実』(1976) 『レインわが半生』(1985) など。
「誰に対しても優しく公平に思いやる」という態度は 美徳として語られることが多いでしょうが、 真剣にそれを追い求める人はあまりいないように思えます。 おそらく、そのことを人より真剣に考えねばならない何らかの 心理的要因がある人を除いて…。
「誰に対しても優しく公平に思いやる」という人間は、 実社会では概して疎まれます。 自分達の仲間に有利に、仲間以外には冷たくなれる人間の方が 集団には溶け込みやすいのです。 「公平な思いやり」など、ある集団の優秀な構成員になるためには 実は却って邪魔なだけです。 例えば「夢をごらん」でいがみ合う街のどちらにも帰属できずに はみだしていく4人の姿にそういったことを感じます。
みんなのことを考えて理解しようとし、 優しく公平に接しようと求める人は、必然的に孤独への道を歩みます。 綺麗に(?)言えば一匹狼ですが、 誰とも親密な関係の築けない体質なだけと罵る人もいるかも知れません。
「誰に対しても優しく公平に思いやらないとね」と自分に説教した人が、 それを実行しているとは限りません。しかし、心理的な宿命により それを本気で受け取って、真剣に実行しようとしてしまい、 孤独さを感じている人は、いつか誰かにこう言うかも知れません。
「人の言う事をあまり真剣に受けとめ過ぎるんじゃないよ」そんな人間が、自分の拠り所を「公平な視点」や 「どんな人間をも理解し優しく接している」ことに求めようとするのは 不思議なことではないでしょう。 しかし、それを突き詰めることが最大の落とし穴になります。
いくら自分が「公平」にしているつもりでも、 自分の認識できる世界には限界があるし、また、 判断には必ず主観が含まれてしまいます。 自分のすがる「公平な判断」も自分を守りながらの物でしかない 気がして来ます。そしてそれはそうなのでしょう。 「他人の気持ちを理解して思いやって」と言っても、 他人の心なんて結局わからないし、 わからないこそ他人なのだという方が正しいのでしょう。
公平さを求めて孤独になり、自分の求めていたものにもたどり着けない。
わかっている、けれど、そこで諦めてしまっては自分のアイデンティティが、 孤独な自分を支えてくれる拠り所が、根底からなくなってしまう、だから、 無理とわかっていてもそれが欲しい…………そう思った人は、 こんなふうに祈るかも知れません。
「どこへ行こう?
どこ迄行こう?
けれど…どうやって行こう?
ボクが行きたいのは向こう岸
橋をかけて…舟を渡して…けれどボクはどこにいる?
ここにいるボクは偽りのボク
偽りの手…偽りの言葉
それならば偽りの橋と舟
どうやって欺こう?
知っているボクをどうやって欺こう?
それともどうすれば……得られるのだろう?
虚像ではない橋と舟…目的地…そしてボク…
偽りではない真実のものを…どうすれば?」公平さを求めて孤独になり、そして(たかが人間でしかない故に) 公平さにも辿り着けずに、自分の拠り所にさえ見放されてしまった、 そんな人間が、どうやって生きていったらいいのか?
三原順さんの作品にはそれが書いてある気がするのが、立野が 三原順さんを好きな大きな理由の一つだと思います。
12月12日、13日と、東京で三原順展が開かれて、立野は入り浸っていました。 原画以外にも、たくさんの資料や当時の雑誌が置かれ、そこでの収穫はあまりにも たくさんありました。徐々にページに書いていきたいと思います。
『別冊花とゆめ』1981年夏の号だったと思うのですが、特集ページの中に 「初恋について」のような企画があり、高校の時に何度投稿してもダメだった頃、 「僕に見せられるような作品を描けばいいんだ」と 言ってくれた男の子の思い出とかを時代別に1コマくらいの大きさでちょこっと 並べてあります。その中に、中学生のころの思い出として、 「グループサウンズ全盛期、ジュリー!とは叫びませんでしたが、 ツナキ〜! とは叫んでいました」、というような記述があります (細部うろ覚えです、ごめんなさい)。 そして、グループサウンズのバンドが演奏している絵のコマの上に、
・ ・ ・ ミ ハ ラ ツ ナ キ と書いてありました。(気付いて教えてくださったRMさん、感謝です)
これは、三原さんのペンネームの由来か? 「ミハラ」の上の点々がいかにも気になります。それにしても、 グループサウンズ時代に活躍したミハラツナキさんとは?
結局会場ではわからず、宿題として持ち越されたのですが、 ごーだまさんが三原順さんと同年代の知り合いの方にお尋ねしたところ、 ブルーコメッツのギタリスト「三原綱木」さんだとあっさり判明しました。 (ごーだまさんとお知り合いの方、感謝です)
ブルーコメッツについてウェブでサーチしてみたところ、 60年代通信 というサイトに色々紹介があるようです。 「『ブルーシャトー』レコード大賞受賞 30周年記念特別企画 ジャッキー吉川とブルーコメッツのすべて」というページのデビュー曲 「青い瞳」の解説から、少々引用させて戴きます。
「ロックンロール・コンボ・バンドとしてのブルーコメッツの歴史は、 1950年代まで溯らなければなりませんが、いわゆるグループサウンズとして、 ジャッキー吉川、小田啓義、高橋健二、井上忠夫、 三原綱木のメンバー5人が定着し、 ジャッキー吉川とブルーコメッツというグループ名で全国区の認知を得ることに なったのは、この事実上のデビュー曲「青い瞳」によってでありました。
1966(昭和41)年3月に英語版が発売され、フジテレビの音楽番組 「ザ・ヒットパレード」のディレクター・椙山浩一(すぎやまこういち)に 評価されたこともあって、番組の中で繰り返し歌わせてもらっているうちに、 本当に売れ始め、10万枚程度のヒットとなったものです。 同年7月には日本語版が発売され、こちらは50万枚を超える大ヒットを記録、 ブルーコメッツは一躍、全国的に知られる人気グループとなり、 この年の紅白歌合戦にも初出場することになったのでありました」
http://plaza8.mbn.or.jp/~60net/bluecomt.htm#blueyeen より(太字は立野による)そして、1967年3月に発売された「ブルーシャトー」が100万枚を越える大ヒットとなり、 その年のレコード大賞を受賞するようです。
三原順さんは1952年10月生まれですから、1966年〜1967年は13才〜15才、 ちょうど中学生くらいになり、時代考証は合うようです。
これがペンネームの由来であるかは正確には不明です。 でも、この三原綱木さんが三原順さんのペンネームの由来であるとすると、 三原順さんの可愛い側面がのぞいている感じで、ちょっと面白いですね (^^)。
(一九九八年十二月 立野 昧)追記)三原順さんに近しい方にお聞きしたところによりますと、 ペンネームの由来は三原綱木さんに間違いないだろうとのことです。
子供の頃、立野はよく母親に、「お前は他人を思いやる心がない」と言われました。ごく些細なことでなのですが。 たとえば、自分の分だけお茶をいれたりすると、 「何故お父さんの分もついであげないの? お前は他人を思いやる心がない」 というように。親だけでなく、他の大人にも言われた気がします。
「お前は人間らしい心がない」子供の頃、子供に幻想を持った物語に苦しめられました。
「誰でも赤ちゃんの時は空を飛べたのよ」
「赤ちゃんは動物やお花と話ができる」
「いつの間にかそれを忘れてしまっているだけよ」立野は1歳の時の記憶もあるのですが、 空を飛べた記憶も動物と話した記憶もありません。 小学生の時、草や花や動物に必死に心で語りかけました。 自分は純粋な子供だと信じたかったのかも知れません。 けれど報われませんでした。
立野はそんな風にどこかしら人間性を否定されて育ちました。
どうしたら「人間らしい人間」になれるだろう。 どうしたら「優しい人間」になれるだろう。 一般的に「人間らしい」「優しい」と言われる行動を真似して…。 けれど、それは逆に「本当は人間らしくない」「本当は優しくない」 という思いを抱かせてしまうことになりました。
小学6年生の時、クラスの女の子が男の子にからかわれているうちに 机から消しゴムを落としました。 傍観していた立野は、それを拾って女の子に渡しました。「優しいね」その子はそう言ってくれたのですが、心の中で 「自分は本当は優しくなんかないんだよ」と感じていたのを覚えています。「子供らしい」「純粋とされる」ものに、妙にひかれ、 興味を持った時期がありました。 人間性へのコンプレックスの一つの現われだったのでしょう。 しかし、「はみだしっ子」に出会ったとき、自分が本当に求めていた 物語はこれだったのだと思いました。
グレアムが葬式のときに笑ったために「人の心を持たぬ子」 として罵られるシーンには特に、並々ならぬ感情移入をしました。 グレアムが自分の善良性を信じられず、自分が悪いことをしないように 見張っていなければならないとか、自分は善良なのではなく 知識としてそういうことはしてはいけないと知っているだけだ と悩み苦しむ姿が、まるで自分を見ているようでした。
それ故に、ジャックがグレアムに言う、 「おまえの親がどうであろうと、おまえはもう自分の性格くらい 自覚して直す努力の出来る歳だな!」というセリフは 厳しく響いてきましたけれど。 自分はそれを読んだとき、既にグレアムより年上だったので (^^;)。
「はみだしっ子」を読むときに、立野はどうしてもグレアムの 「人間性へのコンプレックス」抜きに考えることが出来ません。 グレアムが人間性や善良性にこだわり続けるために、グレアムを 「人道主義者」「正義漢」「理想主義者」と捉える向きがありますが、 立野の目から見ると、グレアムが人間性や善良性にこだわり続けるのは、 グレアム自身がかつて「人の心を持たぬ子」「人殺し」と言われ苦しめられたが為に、 そういった事に人一倍敏感にならざるを得ないだけに見えます。
三原順さんは、立野の傷を自分に自覚させ、無闇に自分を否定すること無く 乗り越えてゆくきっかけを作ってくれた気がします。 今でも三原順さんは立野の苦しみの最初で最大の理解者である気がしています。
グレアムの誕生日によせて、少々私的なことを書いてみました。
(一九九八年十二月二十六日 立野 昧)