確たる証拠はないのですが、「山の上に吹く風は」に太宰治を 感じるのは私だけでしょうか。「大向こうの連中」という言葉に ひっかかるのです。追究していないので自信ないのですが。。
「はみだしっ子」を読まれた方は記憶に残っている思いますが、 クークーが病院から抜け出すきっかけになった曲は、「カッコー鳥」という曲でした。
聴いた所によりますと、Peter Paul & Mary の "The Cuckoo" という曲なのでは ないかということです。別の情報によりますと、 ジャニス・ジョップリンの "COO COO"という曲ではないかという説があります。 (情報をメールして下さった方、ありがとうございます)
後で書き直すつもりですが、未だに語られることの多い「はみだしっ子」 最終回について、立野が思ったていたことを少しだけ書きます。
最初にラストシーンを読んだとき、正直まったくわかりませんでした。 どんなイメージなのか。何が言いたいのか。 ただ、グレアムがもう一度立ち上がったことがわかって、 それは嬉しかった気がします。はみだしっ子は何度も読み直しましたが、 ラストシーンがわかったという気がしませんでした。
それが、ムーンライティングシリーズの2巻「僕がすわっている場所」 のラストのダドリーの話を読んだとき、「あ、これが『はみだしっ子』 最終回のイメージなんだ!」と、突然思ったのです。
太古の昔、火を起こし、石器を使うことを憶えた人間という生き物が、 長い時をかけて作り上げてきた文明への肯定。 人間は愚かなことをいっぱいやってきて、法律なんだの面倒なものも 作らなきゃならなくて、それでも、 「文明社会に人間として生まれることが出来て良かった」。
はみだしっ子のラストも、そんなイメージだったのかと、 本当に唐突に感じたのでした。
(言葉が足りない部分は、また補います。とりあえずこの辺で。 1997年8月 立野 昧)
えっと、三原順さんの未完の遺作となった「ビリーの森 ジョディの樹」 のシリーズについてです。またしても、さわりだけの文章に なってしまいましたが、これから読もうという方は、 この小文を読まない方がいいかも知れません。
この作品は未完のまま終わり、下書きの段階の絵をなんとか単行本に まとめたり、作品にならなかった部分を三原順さんの残したプロットメモを 単行本第2巻の巻末にそのまま載せる形で終わっている。 その過程が重苦しいのと同時に、作品自体が悲しいほど苦しい。
三原順さんは、何故こんな作品を…?
そして考えるに従い、ジョディが絵を描き続けねばならなかった理由と、 三原順さんが漫画を描き続けなければならなかった理由が、同じに思えてくるのです。 いつか、この辺の気持ちを、 「ジョディ(あるいは三原順)は何故描き続けなければならなかったか」 というタイトルで文章にまとめてみたいと思っています。
ここでは「ジョディがいつ恋人の死の真相を知ったのか」について、 疑問に思っていることを書きます。 実際に漫画化されているストーリーと、単行本第2巻の巻末に収録された プロットの間で、恋人の死の真相を知るタイミングが食い違っていると思うのは、 私だけでしょうか?
プロットの方では、ビリーが殺しているということは ジョディはかなり後になってから知り、ビリーに「死んで謝罪して」と 言うことになっているのですが、漫画化された部分の中で、 既にジョディは死の真相を知っており、ビリーを許すような発言さえしています。
この相違は、プロットを書いたものの、作品を描いているうちに ストーリーが変わっていったためと思うのは私だけでしょうか?
三原順さんが生きていて作品を描き続けていたら、 単行本に収録されたプロットとは、違う作品に仕上っていた 可能性もあるのですよね? そうだとすれば、
最後まで読みたかった。
一読者としても、無念でなりません。(1997年9月 立野 昧)
立野の三原順追悼文でクイズのように 触れていましたが(^^;、ボブ・ディランの「ミスター・タンブリンマン」 の歌詞(訳詞)にある「眠くはないけど 行くところがない」というフレーズが、 はみだしっ子の中で使われています。
どこに出て来るかですが、「山の上に吹く風は」で、 死体を運び放火したアンジーがジョイの拳銃で死のうとするシーンです。 もちろんみなさんご存知の通り、拳銃には弾がなく、アンジーは 死ねなかった訳ですが。(祝福を!)
この拳銃、「山の上に吹く風は」の最後のほうで、 (死のうと思えばいつでもこれで死ねるのだけど) 自分自身の意志で生き続けているのだと確認するために、 アンジーが持っていることになります。
その後ずっと…アンジーは持っていたんでしょうね。「つれて行って」 最後のほうでグレアムを止めるためにアンジーが突然持ち出します。
「いつ弾を買ったんだ?」
うーん、深く考えないことにしましょう(^^;。 きっと、三原順さんは考えてあったと思いますけどね。(1997年9月 立野 昧)
はみだしっ子最終シリーズは「つれて行って」でした。 どこへ連れて行って欲しかったのでしょうか? 人それぞれ、色々な解釈があるようですが…。
初期短篇「ラストショー」の中で「Take me with you」という書き込み があり、同時に「オクトパス・ガーデン」の歌詞も書き込まれています (コミックス P145)。
だから、私は長い間「つれて行って」はビートルズの「オクトパス・ガーデン」 の歌詞だと思っていました。 しかし、「オクトパス・ガーデン」の歌詞を見ても、「Take me with you」 というフレーズは見当たらないんです。
ただそのため、ごく単純に、海の底の蛸さんのお庭に 「つれて行って」欲しいのだと思っていました。 色んな意見を聞きましたが、結局、今でも…そう思っています。
初期の三原順には露骨な引用が多いので (それがまた面白いのですけど)、 「take me with you」というのもどこからかの引用だと思っているのですが、 つかめません。心当たりのある方、立野の掲示板にでも書き込んで下さると 嬉しいです。(1997年9月 立野 昧)
1999年4月 追記) 有力な情報があり、「TAKE ME WITH YOU」という曲が判明しました。 詳しくは「三原順さんの音楽」の 「TAKE ME WITH YOU」 を参照ください。
[97.11.22 加筆] 立野のこの文章に若干キツさを感じた方もおられたようです。 しかし、放送におけるコメンテーターの発言の一部は これの10倍はキツくて下品だったと思いますし、 NHK衛星放送という10万倍以上影響力のあるメディアを使って、 10倍ひどいファンヘの中傷発言もあったのですから、 これくらいキツく書いてもまだ力のバランスは取れてないと思っています。 それでも、「作品をちゃんと読んでいなかった気がします」と書いたのは、 レギュラーコメンテーターの方への最大限の配慮だったのですが。 仕事でやっている人は、特に思い入れもなく語りたくもない作品についても 何かを語らねばならないことがあって大変だとは思います。
「BSマンガ夜話」で「はみだしっ子」が取り上げられました。
1997年9月24日(水曜) NHK衛星第2 夜11時〜12時 生放送。
司会: 大月隆寛、川村ティナ
レギュラー出演: いしかわじゅん、岡田斗司夫
ゲスト: 鷺沢萌、清水ミチコ、村上知彦
NHKのBSマンガ夜話 ホームページに、 視聴者などからのメッセージが残っています。今回取り上げられた5作品のうち、 当然ながら(?)、はみだしっ子に寄せられたメッセージが最も多いという 結果になりました (^^)。
もう一ヶ月もたってしまいましたが、私は未だにこの放送を観ていません。 しかしいい加減遅くなりすぎなので、観た方から間接的に聞いた話を元に、 いくつかコメントを残したいと思います。
レギュラーのコメンテーターの人達は、 作品をちゃんと読んでいなかった気がします (「アンジーって病気になったからお母さんに捨てられたんでしたっけ?」 はないでしょう)。 作品について批評らしい批評はあまりなかったようです。
これは、三原順さん自身がどこか (はみだしっ子語録かオールコレクションか) で、 「『ルーとソロモン』は往々にして『はみだしっ子』へのおちょくりになっている」 というような発言をしていたのを受けているのだと思います。 私は「自己批判」とまでは思いませんけど…。 放送ではそれ以上、話の発展はなかったようです。
グレアムの行動や言動のいくつかは確かに青臭かったかも知れません。 やはり三原順さん自身がどこか (はみだしっ子語録かオールコレクションか) で、 「生意気ざかりの年齢であることを考えてやった」と発言していたと思います。
いずれにしろコメンテーターの発言は、「グレアムの青臭さ」= 「作品の青臭さ」と混同し (もしかして故意に?)、 しかもどこがどう青臭いのかを明言しないというものだったようです。
これって、作品批評というよりファン批判ですね (根拠が明示されていなければ、批判ですらなく単なるファン中傷ですけど)。 一般論として、作品そのものを深く知らないまま発言する人たちは 作品そのものについて突っ込んだことが言えないので、 無理に喋ろうとするとこういうメタ議論みたいなことしか 言えないのかも知れません。
「法律がすべてとは言わないが、法律のない世界には行きたくない」
「『生きていて欲しい』と伝えることは出来るだろう?」
「自立することは孤立することと違う」
私はこれらのセリフが青臭いとも恥ずかしいとも思いませんし、 今でもそれらのフレーズに影響を受けている人たちを 「おかしいんじゃないか」とは、まったく思いません。
これって、SMAPファンと、三原順ファンの双方を馬鹿にしてますね。 まあ、ファン心理として共通する部分もあるでしょうが、 それはあなたのファンだって同じでしょう…。
こういう話題が出そうになって終わってしまったそうですが、 これについては非常に思うことがあったので、別項「三原順の海」 に書きました。
Mihara BBS の方で話が出ているので、興味がある方はそちらを参照下さい。
BSマンガ夜話へのメッセージに書いていた方もいましたが、 「はみだしっ子」が連載されていた時代はマンガ評論全盛期であったにも関わらず、 「はみだしっ子」が評論の対象として取り上げられることはほとんどなく、 取り上げられた時も、キャラクターがいじましいとか逃げてばかりで何もしないとか、 走る少年の美学が感じられないとか、インネンに近い言葉で 切り捨てられることが多かった気がします。
当時、「漫画家や漫画評論の世界にも派閥みたいのがあるのかなー」 と漠然と感じていたのを覚えています。
はみだしっ子後期において、作品が異様なまでに理論武装(?)して行くのは、 そういった批判に対抗するためにやったのではないかと 考えたこともあるくらいです(^^;) (これ、いつか三原順さんにきいてみたかったのですけど)。
その甲斐あってか? はみだしっ子完結後は、高く評価する批評も見かけました。 そしてやがて、熱狂的なファンが静かになると、中傷のような評論はなくなりました。 (こう追ってくると、評論家の人は自分が嫌いな(もしくは理解できない) 作品の「ファンが嫌い」なのだと思えてきますね…)
三原順さんの死後は再評価の気運もあったと思います。 だから私は、まさか今回のマンガ夜話が、まるで「はみだしっ子前期」 に対する感情的批判を再現するような内容になるとは思っていませんでした。 色々な意味で、残念です。(1997年10月 立野 昧)
先日「ビリーの森 ジョディの樹」シリーズを読み返してみて、 やはり、ジョディが三原順さん自身に思えて仕方ありませんでした。 そのように感じた方は他にいないでしょうか?
具体的にどこがどうというより、たとえば、次のようなジョディの言葉…
「昔は描く前に描きたいものが見えていて
そのイメージに追いつこうとして…留めておこうとして筆を動かした…
でも今は何も見えない
見えないまま…"何か"やってきはしないかと手探りしながら描いてる…
そして私は行きたいはずの"どこか"へたどり着けない…
それでもまだ…描いてる…
"描く"ことが私にとって唯一現実感を伴うことだったのを忘れられず
それだけで?」
(シリーズ第一巻「ジョディの海、ビリーの樹」)
これが三原順さん自身の言葉のように聞こえてしまうのです。 絵を描くときにいつも音楽を聴きながらというのも、 三原順さん自身の話に思えます。 三原順さんの長編にしては珍しく(?) 女性を主人公に据えているのも気になります。
「はみだしっ子」とビリーのシリーズの関連性ですが、 ビリーの殺人とマックスの殺人を重ねて考えると非常に似ています。
たとえばマックスの殺人によってグレアムの精神がおかしくなるのと、 ビリーの殺人によってジョディの精神がおかしくなるのが似ています。 (漫画化されたストーリーでは、ガーフィーの死の直後にジョディは ビリーと会って恋人の死因を知りますから、その後にこの世界から 遠ざかってしまうわけですよね)
グレアムがマックスを一旦突き放すように、ジョディも一旦ビリーから 遠ざかります。
「私はそちらへは行けないのよ ビリー
私はここにとどまりたいの
ここに! 多くの煩わしさと共に…とどまりたいの
たとえ愛のためでも他人を殺してはならず
奪ってはならず ただ小競り合いを続ける…
私が抜け出したくて樹の下に行った"曖昧な世界"に
木と鳥と言葉を交わう力を持てない ただの"人間"のまま
過去に起こったこと全て共に
だからビリー もう少しそこで待っててね…
私が…あなたを受け止める準備を整える間…もう少し…
今とどまっている 境界線を越えずにいて
…ごめんねビリー ごめんね!」
(シリーズ第二巻「ジョディの海、ビリーの樹 vol2」)
そしてそれから、グレアムがマックスが笑って生きられるように 考えるように、ジョディも…考えます。
「(もしビリーが生きていたらどうしてたというランスの問いに)
医者を探したと思う…誰か…ビリーが唄ったり笑ったり…
たとえビリーのせいで二人の人間が死んだとしても…
それでビリーが生きていることを楽しんでも許してくれる人を…」
グレアムがマックスの殺人をかばっていることには批判も多いですよね。 マックスに本当のことを言うべきだとか。私もその批判はもっともだと 思います。三原順さんもそう思ったかも知れません。ただ私の想像ですが、 マックスに本当のことをいうべきかどうかというのが単純に三原順さんが 描きたかったことから外れていたんじゃないかと思っていました。
だから今回は「ビリーに本当のことを言うべきだ」と言われないように、 最初から殺人を自覚しているようなキャラクタを作ったのではないかという 気さえしてきます。
人間はみな生まれつき根が無邪気な生き物であり、しかし無邪気さとは 悪気もなく悪いことをしてしまうことでもあり、そしてだから無邪気な ままではいけない部分を後天的な学習によって獲得して行かねばならず… しかしビリーは、そいうった後天的学習がうまく出来なかったものである なら…。
「殺すことが人間の本能でなければよかったのに」
ジョディは海の絵を描きます。 やはり、ジョディの海ではタコが遊ぶんでしょうか?
この作品の続きが読めないことが残念でなりません。(1997年10月 立野 昧)
自宅で「チェリッシュギャラリー 三原順2「はみだしっ子」その後」 を発掘したので、内容について書きます。
以上、カラー8枚、白黒4枚の12枚です。あと、栞が2枚入ってました。 ロボの奴と、3匹のオオカミ…かな?
見た事あるようで思い出せないのが多いです…。(1997年11月 立野 昧)
しょうもないタイトルをつけてしまいましたが(^^;)、 「チェリッシュギャラリー 三原順2「はみだしっ子」その後」につけられた 三原順さんのコメントに苦労して色絵を描いた話があります。 特に〆切のため同時にネームをやっているときが大変だそうで…。
「…そういった妙に曖昧で歯痒い時を積み重ねて来た結果、 足の指が嫌がらせの様に、机の足を抓りに行ったり、 万才してみせたりする様になりました。これだけは自信を持って、 「上達した!」と言えます!! もう床に落としたマッチ棒だって拾えるんですから」
さて、この文章を読んで、思い出すのは「ロングアゴー」のロナルド。(^^)。
化学の実験中、ジャックが片手でマッチをする練習をして ちっともうまくならないのを見てて、ロナルドが自宅で「ふん、簡単じゃん」 とやっているシーンをおぼえていますでしょうか。 「こんなの足でだって出来る」と、ロナルドは足でマッチをすろうとして、 火はついたものの、マッチが箱ごと燃え、その瞬間足がつって離せなくなり、 足に人に言えない火傷を負ってしまうわけですが…(^^;)。
…まさか、これって、三原順さんの実体験ではないですよね? (^^;; いや、まさかとは思うんですが、 これだけ足の指の器用さを主張した文章を読んでしまうと…。
たぶん、足でマッチをするのに挑戦くらいはしていたんじゃないかと 思います (^^)。(1997年11月 立野 昧)
以前に書いた「はみだしっ子最終回について」では、 原始時代のシーンについてのみ述べていました。先日、 ラストシーンをパラパラと見ていて、ふと昔の疑問点がもう一度よみがえりました。
「グレアムは5時までには帰って来ると言った」というアンジーのセリフがあって、それが伏線になり、ラスト近く、 時計が描かれます。そして、最終ページの直前では、 5時をさした時計が描かれています。これは、何を意味しているのでしょうか?
正直言って、この時計については、原始時代の絵の意味ほどには自分でも 「これだ」と思える解釈が未だに得られません。これは、 「5時までにはグレアムが帰らなかった」ことを意味するのでしょうか? だとしたら、暗に「何故ならグレアムはその足で警察に自首しに行ったから」 という意味があるんでしょうか?
更に読み返していて思ったのは、グレアムはトリスタンで 「フェル・ブラウンの兄を射殺した」言うけれど、 「自分が殺った」とは言ってないですよね。 多くの人はそう取るでしょうけど、 はっきり自分が殺ったとは言ってないとも取れます。 仮にグレアムが自白するのだとして、取り調べにおいてはおそらく、 3人(グレアム、サーニン、マックス)から別々に事情聴取し、 3人の説明が一致するまで別々に聴取が続けられますよね (アンジーはいないことになっている)。 サーニンとマックスは殺人そのものには語らないにしても、 アンジーがいたことはいずれバレるでしょう。 そうすれば、アンジーが救助されずしてどのように助かったかが問われます。 グレアムもアンジーも、シドニーの関与は隠す気がしますが、 射殺したのならその死体をどうしたとか聞かれる筈ですし、 そのピストルをどうしたかも聞かれるでしょう (アンジーが持っている訳ですが)。仮に裁判にかけられたとすれば、 フェル・ブラウンが証言する可能性もあります。自白する以上、 嘘をつき通すのは極めて難しい気がするのですが…。
まあ、こんなことを考えた人は多いでしょうが、 つまるところ、その後の決着はわかりませんよね。いずれにしろ、 グレアムにとって雪山での件を隠しておかなければいけなかった理由がなくなって、 告白するにしろ告白しないにしろグレアムの自由だという状態になった所で、 グレアムが告白する、そこで「はみだしっ子」が終わります。
そう言えば、BSマンガ夜話の掲示板に、
「ラストシーンでクレアムが言ったあの一言で、 彼らの(社会からの)『はみだしっ子』としての物語は終わってしまったのだ」というのがあったのを思い出しました。 (1997年12月 立野 昧)
後期の「Sons」などに出て来る、ウイリアムというキャラクタがいますが、 人によって好き嫌いあるみたいですね。立野は割と好きなのですが…。
キャラクタ的には、ダドリーが一番、自分にハマリますが、 そうですね、ダドリーがつまるところウイリアムを好きであるように、 立野もウイリアムが好きなのかも知れません。 でも、サラがウイリアムが好きなのとはちょっと違うかな…。 と、思ってしまったのは、こんなシーンがあったからです。
ウイリアムが、「俺だって昔は弟(スティン)が好きだった」 「でも今はどうして好きだったのか…思い出せない」ということを話すと、 サラが、「それはあなたがあなたの悪意を弄んで、 あなたの幸せな想い出を食い尽くさせたからよ」というようなことを言います (細部はうろ覚えです)。ウイリアムは、 「それもまたよし…とは言ってくれないのか?」と言うのですが、 サラは「意地悪だから言ってあげない」とウイリアムをいじめます。
でも、立野だったら、「それもまたよし…」 と言ってあげちゃいそうな気がするのです。いや、 別にどっちがいいのかは良くわからないですけど。 (1997年12月 立野 昧)
先日、立野のホームページを見たという方からメールを頂きました。
BSの放送で鷺沢萌さんが 「年表を作ったけど辻褄の合わないところがあった」 と話していたので、自分なりに簡単な はみだしっ子年表を作ったのですが、 おかしいところはなかった、という話でした。
その年表は許可を頂いて立野のホームページの下に置きました。 快く掲載を承諾していただいてありがとうございました。
鷺沢萌さんは、裁判のシーンでのマックスの「8歳です」 という発言がおかしいと言うんですがそういう発言は見当たらないですね… と、話していたのですが、昨日、文庫版の「はみだしっ子」を 読み返してみると、マックスが証言の冒頭で年齢を聞かれて 「八歳です」と言っているではないですか。
???と思ってコミックスを引っ張り出して同じ箇所を読むと、 「11歳です」となっています。
とりあえず気づいた相違点は、
です。どちらかと言うと、文庫版の方がおかしい。コミックス11巻p42「11歳です」 → 文庫版5巻 p218「八歳です」 コミックス11巻p72「なんと自信なげなラルフ君」 → 文庫版5巻 p248「なんと自身なげなラルフ君」
そこで、次のように推測しました。
愛蔵版は立野は持っていないのですが、もしどなたかわかりましたら 教えてください。
1998.1.23 附記)愛蔵版も「八歳です」となっているとの情報を いただきました。お知らせくださった方、ありがとうございます。 もしまた「はみだしっ子」が再版されることがあるなら、 修正版で出るといいですね。